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報國丸(ほうこくまる)

 大阪商船のアフリカ東岸航路は大正15年3月にかなだ丸を第1船として開設され、翌4月逓信省の命令航路となり同型船ぱなま丸、志かご丸、めき志こ丸と4隻で、神戸を起点としてアフリカ東岸の各地に寄港し、ダーバン折返しで月1回の定期船運航を実施した。
 当時同航路には邦船社日本郵船の外、外国船数社が参加し激しく競争していたが昭和6年4月6日に郵商協調が成立し、日本郵船が南阿経由南米航路から撤退した。
 それを機に大阪商船では就航船の大型化を企画、はわい丸型2隻と、ありぞな丸型3隻の計5隻を投入し、ダーバン折返しをケープタウンに延長、往復航共活発な荷動きに定期船船腹だけでは対応しきれず、毎年臨時配船も行った。
 昭和8年に至り邦船社川崎汽船、国際汽船、山下汽船の3社が同航路への割込みを画策し、具体化の形勢となり、円満収拾を第一と考えた大阪商船は、同9年2月以降3社の配船を傘下の扱船とし活用する3社協定を締結し、9年には13、10年に18、11年に24、12年に23、計78隻に及ぶ臨時配船で好成果を上げた。
 昭和12年4月1日実施の政府優秀船建造助成施設の適用を受け、大阪商船では5隻建造し、西廻り世界一周南米航路用の豪華貨客船あるぜんちな丸とぶら志る丸の2隻を竣工、世界の注目の的となり続いて南阿東岸航路用として報国丸、愛国丸、護国丸の最新鋭高速貨客船3隻を三井玉造船所に発注し、報国丸は15年6月15日に愛国丸は翌16年8月31日に、第3船護国丸は太平洋戦争開戦後の17年10月2日に完成となった。
 この三姉妹船の命名に関し商船三井の百年記念誌「風涛の日日」の中に、戦時色の強い時代の匂いをかぎとる事ができ、創業いらい大阪商船の船名表の中には、これだけがどこか優しさに欠けているようだ、と記されている。
 この船は和辻博士設計の水平甲板船で全通二重底の8防水隔壁で9分割され、総屯数10,439屯、主機は三井BWディーゼル2基で出力19,427馬力、最大速力21.15節、船客定員1等48、特3等48、3等304計400名で、公室等総て近代的な日本式に統一され、豪華な特別室「奈良」は見事な出来栄えと伝えられる。
 六船艤に4組の門型揚貨柱を備え、電動式揚貨機のデリック16本で荷役能率の向上に貢献した。竣工後の処女航海は神戸と大連間の重要物資輸送に従事、翌7月19日横浜港から神戸・門司経由南米東岸航路に就航し、航海終了後は国際情勢緊迫のため外国航路は次々と休航になり、同年12月半ばより大連航路に就航した。
 太平洋戦争開戦前の昭和16年8月28日海軍に徴傭となり、三菱神戸造船所で特設巡洋艦に改装され、15糎砲8門、8糎高角砲2門、25粍機銃4門を装備、更に魚雷発射管2基と94式水上偵察機2機を搭載、姉妹船愛国丸と共に連合艦隊に所属した。
 2ヶ月間の突貫改装工事を終え開戦前の11月15日、極秘裡に岩国を出撃し濠州方面の交通破壊任務を帯び、12月8日の開戦と同時に南太平洋で行動を開始、同13日米船ビンセント号、翌1月2日アラマ号の2隻を撃沈、4月末には印度洋に転出し、6月5日モザンビーク海峡でエリシャ号を撃沈、7月13日セイロン島南方でホーシキ号拿捕の戦果をあげた。
 その後9月にはスマトラ島駐留の佐野兵団将兵をラバウルに輸送、完了後印度洋に復帰し11月5日星港を出撃、海上交通破壊作戦中の同11日に印度洋上ココス島のオランダ南西97浬で、和蘭の武装油槽船と交戦し、15時45分不運にも敵弾が予備魚雷に命中し大爆発となり、同日の17時52分乗組員犠牲者6名を道連れに沈没した。

松井邦夫一(関東マリンサービス)



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