精神障害者を持つ兄弟として
福井県 山内 進
私が小学校2年の時でした、家の裏の座敷牢に入れられ毎日奇声を上げていた人、夜遅く私の家の横の窓の所に出刃包丁を持って「があがあ」とさけんでいる人を私の兄が、上手になだめ包丁を取り上げ、警察にだしました。このような事で障害者に合っても別に怖いとは思いませんでした。これが勉強の基礎になりました。
さて、私の妹は、5才年下ですが、生後2ケ月頃骨髄膜炎になり、小学校6年生頃より月1回の割で、けいれん発作がおこりましたが、高等小学校を終わって、軍需工場に約半年勤め、その後母と共に過ごしていました。母は何軒かの医者に見てもらい、てんかんと言われました。
そのてんかんは、ただ「あわ」を吹くだけではなく、手足であばれる状態で母は押さえますが、父は恐ろしくて逃げだし、私と一番上の兄は母に協力しました。てんかんは、胃が悪いので余り食べさせたら駄目といわれ、母は少しずつ減らしていました。そうすると、外へ出てゴミ箱をあさり町をぶらつくようにして歩いていました。
それでも、母は針仕事、毛糸の縫物を教えていたのです。母の時代は、女は針仕事が出来なければならない時代だったからです。
妹は、発作が起る前は、自分でも判る様になり直ぐ寝て発作に対応するようになりました。この後は疲れるのでしょう、一日中寝ていました。母は、精神病とは死ぬまでいいませんでした。
三国町の汐見橋で川を見ている最中に発作が起きたのでしょうか、溺れている処を私の友人が助けて下さいました。すると、保健所の方が私の処へきて、どこか施設へ入れた方がよいと、母と私に相談がありました。
昭和36年3月15目で兄と私がタクシーで大野荘へつれていきました。
保健所の方も精神病とはいいませんでした。28日に精神病院より着替を持ってくるよう言われ、保健所の人によくも精神病にしたな、これからは保健所が死ぬまで面倒をみてほしいと頼みました。
鉄格子に入れられ、電気ショックを掛けられている治療でした。