平均寿命が伸び、「長生きしたい」という人間の欲望が現実になっているにもかかわらず、その最前線にいるはずの日本人に喜びの実感は少ない。高齢化による社会不安が日本を覆い、マスコミ報道の象徴として「孤独死」が語られる。確かに誰にも看取られず一人で息を引き取ることは寂しいかもしれない。しかし、たまたま一人で死んだからといって、すべてを扇情的(センセーショナル)に「孤独死」=悲しい人生の終焉とまとめるような報道のあり方なら疑問が持たれる。大病院で多くの親戚縁者に看取られたから幸せとも限らない。遺産狙いで死ぬ日を今か今かと指折り数えられ、「最期は私たち大勢で見守り故人は幸せでした」などといわれては、死んでも死に切れないであろう。「孤独死」と語られる現状はどうなっているのか?今号では、その言葉をクローズアップさせた被災地神戸を長く知る筆者に自らの熟年世代の思いを込めて取材してもらった。 (編集部)
高齢者の問題だけではなかった被災地神戸の「孤独死」の現状
今年、神戸の秋は早く訪れたような気がする。震災でも生き残った銀杏並木。その下を歩いていると、銀杏の実がポツンと落ちた。
九月のまだ中旬にもならぬ時に。
一一月の真っ黄色の、目も覚めるような枯れ葉の、輝く舞を見ぬうちに、青々した葉の間から銀杏が落ちてくる。
別の日にまたポツンと目の前に落ちたのを見て、ふと、一人で死んでいく孤独死はこういうものかと思った。
「孤独死」という言葉は、震災後の仮設住宅での独りの死をマスコミがこう報道し、世間に広く知られるようになった。
神戸の西、長田の協同病院を訪ねた。ここは震災の時は半壊だったので患者の手当てを続けることが