講演 II
座長 高野陽(東洋英和女学院大学教授)
演題 子どもにとって歌うこととは
講師 眞理ヨシコ(東洋英和女学院大学教授)
「子供が歌う・子供が歌わない」
この二つの文の違いは、肯定的と否定の違いだけではありません。人の生長から一生を決めるような根本的な違いがあると思います。人間は、息をし始めたときから、体全体でリズムを生きて来ました。そして嬉しい時には高い音を、悲しい時には泣くという赤ちゃんの歌を叫びます。もっと感情が複雑になれば、祈り、伝達、人心の統一、愛の告白・・・・・と、人の気持ちは歌となります。
歌は、その時代、その時々に役割を担わされ、それに応えてきました。誰もが歌の確かな力を経験し、信じて、歌があまりにも近い存在であるため、あまり大事にしない友達のようにしている人も少なくありません。
そのような歌ですのに、いま大学の学生たちに、幼いころ、母親が歌ってくれた子守歌を覚えていますか? と質問しましたら、覚えていない、更に、歌ってもらった記憶がないと半数以上が答えているのです。私は自分が歌とともに生きて来たという事情もありますが、びっくりし、そして悲しくなりました。ラジオ、テレビ、ディスク・・・人々は歌にとりかこまれているのに、スキンシップと同じような母親の歌を忘れているのでしょうか。
赤ちゃんが必要とする母親とのスキンシップの中で歌われたはずの子守歌を忘れようとしているのでしょうか。
「子守歌」こそ、初めての音楽とのふれあい、つまりスキンシップの場。人間は、生理的早産と言われる程、未熟のまま生まれて来ます。だからこそ、(知能はゼロ、性格は白紙)の真っ白な、真新しい脳に、人間として生きるための「力」を、一つ一つ織り込む大切な幼児期に、終生の友としての歌を受け入れる回線を張り巡らさねばなりません。
歌はまたコトバ、詩という一面もあります。豊かな言葉を口にすることは、新しい何かを創り出し、それを自分のものとして言葉や、動作で表現したいと思うことです。
歌で表現するという意志を持つことは、他人のよい歌を素直に感心し、他人の心-意志をも理解することなのです。つまり、情趣をわきまえ、人としてのありようを学ぶことと考えます。
真似ることから始まるこの時期、先生の歌う声は、喜びを引き出します。上手でなくてもいい、心に届くいい歌を、先生、歌ってください。