東北地方の戦争記念館を一歩出ると、「愛国主義教育基地」の看板が入り口のところに掛けられ、小、中学校の学生たちが学校の一カリキュラムとしてここを訪れ、中国人にとっての歴史教育と愛国教育を受ける場所として受けとめられているのである。
半分展覧、半分お土産といったように、現地人の中国人向けの「偽満州」についての歴史教育と日本人観光客の「望郷」のまなざしを意識しての「旧満州」商品とはここではうまく調和がとれている。
三. 結び
このように、中国旅行一般募集自由化(1979年)以降における、日本人の「満州」観光を対応するホスト側に焦点を当てながら、戦争と植民の記憶をめぐるゲストとホストの視線のせめぎ合いや、ネーション・ビルディングとグローバルな観光市場との相互関係を解き明かしてみた。
八十年代から、改革開放政策の実施に伴って目覚ましい発展を遂げた中国では、「教科書問題」への反動や国民統合、経済発展の需要の諸要素と絡み合いながら、「満州」観光に繰り出す日本人のまなざしにむけて、まなざしのずれ、接近および流用という三タイプの対応様態が存在している。
まず、中国のパンフレットや戦争記念館の記述'からうかがえるように、「旧満州」ではなく、「偽満州」と呼び、且つ「東北地方」としての「ニューフェース」を強調する中国側には、植民と戦争の記憶の想起をめぐる日本観光客とのまなざしのずれが存在する。そして、経済発展と観光誘致のため、大連市が積極的に進めている旧日本統治時代の民家と寺院の復元計画という例からもわかるように、日本人観光客のノスタルジックなまなざしに積極的に近づく動きも一方ある。三つ目は、戦争記念館に密着する個人経営のお土産店にみられるように、観光市場はナショナルアイデンティティの維持・促進と一種の奇妙な共犯関係を結んでいるのである。
このように、1979年以降の「満州」観光における中国は、かつての「被害者」であると同時に、また「ホスト」として、愛国教育と観光市場との交差の中で、屈折した対応形態を呈している。
ネーション・ビルディングと近代化が同時進行しているポスト・コロニアル諸国では、おそらく中国と似たように、「被害者」としての歴史・記憶がグローバルな観光市場との複雑な絡み合いの中でいろいろな形で再生産される現象が起きているのであろう。
大変興味深い課題であるが、この課題は意外なほど諸研究者によって等閑視されてきている。本論文は、中国東北地方における戦争・植民地遺産の観光化を例に、資本論理に左右されたナショナリテイの重層性が顕在化する場として、ツーリズムを取り上げてみた。この試みが、現在進行形の「新興国」の観光形態を考察するために、一つ手がかりになればと願っている。