(3) パルミラ
ナツメヤシからその名前の由来があるパルミラ遺跡は首都ダマスカスから北東へ約230kmほど、タドモル砂漠(タドモルとはアラム語でまれな町の意味)の中、鉱泉が湧き出るオアシスにある。1938年、当時5千人の人口しかなかったこの町にそれ以後新市街ができ、現在人口は5万人に昇っている。近くに燐酸塩の採掘場があることから、切り出した燐鉱石を運ぶ大型トラックがパルミラの町を抜けて走るため、遺跡への振動その他公害が懸念されているが、最近町の外側を通すバイパス用道路工事も開始され、町は活気を呈して来ている。
この町の歴史は古く、近郊から約7万5千年前の旧石器時代の石器が発見されている。パルミラは、アラビア半島やメソポタミアと地中海を結ぶ要地にあったため、古くから東西交易の中継地として栄え、特に紀元前1世紀末から紀元後3世紀にかけて、中国とヨーロッパを結び多くの物資や文化の交流がなされたシルクロードの隊商都市として繁栄した。
紀元前1世紀の頃に絶大な勢力を誇っていたローマとパルティアがお互いに争っていたことからパルミラは両者の力関係を上手く利用し、時にはローマの属州となりながらもある程度の独立を保ち、交易による関税の徴収によって豊かな経済活動を続け、2世紀にはローマ帝国に併合されたペトラに代わり通商権を受け継ぎ、この時代に最盛期を迎えたパルミラでは多くの神殿や現在まで残る建物が増改築されたと言う。紀元後279年頃に夫のオダナイト王の死後、幼少の息子に代わり摂政として君臨したゼノビア女王の時代には、シリア国内に留まらず小アジアやエジプトの一部をも支配下に置いた。しかしその繁栄も長くは続かず、ローマ皇帝アウレリウスがパルミラへと進撃し、誇り高き女王ゼノビアは最後まで降伏勧告を拒んだが、272年ローマによって滅ぼされた。
その後は、6世紀以降アラブの支配下に入り、オスマン帝国時代には急速に都市としての力を失い、再び歴史の表舞台に立つことは無かった。
1] パルミラ博物館
1961年に建てられたこの博物館は町の入り口に面している。1階と2階に分けられ、1階は主にパルミラの出土品等が展示され、2階には民俗関係の展示がなされている。1階ではパルミラ出土の遺品、ベル神殿の復元模型、ベル神殿の東側民家跡から出土したモザイク画等が陳列されている。また、紀元前1世紀と紀元後2世紀のミイラの展示もある。
ダマスカス国立博物館と同じく展示の説明がフランス語だけのものがあったり、手書きの説明で読みにくかったり、ただ置いてあるだけと言った感じのものがあって、見る側に興味を半減させるものがある。今後の改善を要する。
2] ベル神殿
パルミラで最大の遺跡である。神殿の建設に200年以上費やし、紀元前32年に完成したと言われる。ベール(天地の神)、ヤルヒボル(太陽神)、アグリボル(月神)のパルミラ三神に献ぜられた神殿とされている。現在残っているのはヘレニズム時代からのもので、ギリシャ・ローマ様式を備えているが、壁の模様や飾り付けなどにはその他の様式も見られる。
三神が安置されている部屋の天丼は大きな一枚岩で、美しい彫刻が施されている。中央に太陽が、周囲は幾何学模様や天体を表わす花が彫られている。裏手には神殿を取り巻くコリント式列柱が残っている。この神殿はじめパルミラの遺跡はすべて石灰石で作られている。