・調査結果
第10次カマン・カッフォユック発掘調査は、北区で第1〜3層までの発掘調査を行うことができた。第1層では、イスラームの基を一つの境として第1a層と第1b層とに分かれることがほぼ明らかになった。出土遺物からも第1a層と第1b層の相違は認められる。前者からは明の中国陶磁器片、ヨーロッパコイン、パイプ、青銅製指輪等が出土しているのに対して、後者からはそれらの遺物は今までの所確認されていない。
北区では、メガロン形式を想起させる建築遺構が第2a層で確認されている。これがメガロン形式の建築であるか否かについては熟考を要するが、少なくとも1991年〜1994年にかけて検出している「回廊遺構」は、メガロン形式を想起させる建築遺構を取り囲むようにして位置していることがほぼ明らかとなった。何れの「回廊遺構」も一般的な住居の壁とは考えにくい。1993、1994年の段階でも確認していたものの、それが果たしてどの様なものであるかは明確にできなかった。今回の調査では、それらの「回廊遺構」がカマン・カレフォユゥクのほぼ中央部に位置するメガロン形式を想起させる建築遺構を取り囲む一連の建築遺構であり、一つの大きな建築コンプレックスである可能性も浮かび上がっている。
北区の第2d層は、21区で調査を行った。第2d層の建築遺構の特徴は一部屋形式であり、柱穴を持ち半地下式タイプのものが多い。彩文土器は曲線文(髭文)のものが多い。
第2d層は、6〜7区で8建築層を確認している。彩文土器は第1〜5建築層で確認されており、それより下層の建築層では確認されていない。21区の第2d層からは彩文土器を確認している。その点から考えると21区の第2d層は6〜7区の第1〜5建築層とほぼ同時期に年代づけられる。これは南区の50〜52区で確認されている第2d層の建築遺構にも当てはめて考えることができる。ただ、南区の第2d層の建築遺構は北区の第2d層の建築遺構とは違い、一部屋形式を採ちていない。むしろ4〜5部屋を持ち、北区の構造とは大きく相違する。この点に関しては今後の問題テーマの一つとしておきたい。
円形遺構の年代については、現段階では次のように考えている。遺構内から多量に印影が出土している。この印影がヒッタイト古王国時代、前15世紀頃に年代づけられることはヒエログリフ(楔形文字)の形態などから理解することができる。これから判断すると円形遺構は印影よりも一時期古い、即ち前15世紀、あるいは前16世紀頃に相当すると考えられる。この円形遺構の機能について今回の調査では明らかにすることはできなかった。遺構内の出土遺物の中には印影の他にプラスター片、良質の土器、獣骨が確認されている。しかし、これらの出土遺物からは、この円形遺構の機能を推測する手がかりを掴むことはできなかった。
21区、24区の焼土層は、1993年〜1994年にかけて22区、0〜2区で確認した通りである。1994年の調査で、この焼土層中にR148、R150の建築遺構を確認している。これらの遺構の年代は、出土遺物から前18世紀とした。21区、24区の焼土層内からもR148、R150と結びつく建築遺構の出土する可能性が高い。
・出土遺物
第1層
北区、南区の第1層で出土した遺物は、ビーズなどをはじめとする装身具類、陶磁器片、コインなどが挙げられる。今シーズンも完形土器、あるいは大型の土器片などは確認することはできず、出土した土器片は殆どが小片である。