第3セッション
ユーロ圏における欧州中央銀行
仏国立科学研究センター助教授
マーク・フランドロー
過去20年間--過去50年間といってもよかろうが--に亙って、欧州では金融面での収斂が徐々に進められてきた。そのための調整はまず(1950年代に)ブレトンウッズ国際通貨体制の中で欧州決済同盟を通じて行われた。その後、1979年の欧州通貨制度(EMS)発足の結果、米国の政策立案から独立を勝ち得た。欧州の指導者たちが、政治的統合への不可欠なステップである通貨統合の前提条件を創り出そうと努めたことから収斂の動きが進んだ。1980年代には、インフレの面からみた収斂への多大な努力がなされた。金融政策は、ドイツのブンデスバンクにより策定され、次いで他の欧州諸国が調整に努めるという形をとっていた。(対ドイツマルクでみた)平価の切下げが行われたことは、各国がフランクフルトで決定された金融政策に完全には追随できないことを繰り返し示すものであった。マーストリヒト条約は通貨統合への道を開いた。同条約では、ドイツだけで決定される政策措置に依存しない目標が初めて与えられた。すなわち、同条約では、各国に割り当てられるインフレ率を(最もインフレ率の低い)上位3ヵ国に連動させるという方式が定められた。もちろんドイツはこの3ヵ国の一つであり、金融面での衛星諸国の助力を得て、「国家が」政策決定を行なう最終段階において引き続き先導役を果たした。
欧州中央銀行(ECB)内におけるブンデスバンクの影響力は依然として大きいにせよ、ユーロ圏の金融政策立案の初日(1999年1月1日)が近づくにつれ、金融政策は--今後もフランクフルト(ECBの所在地)で決定されるが--もはや「ドイツ」によって決定されるのではないということが明らかとなりつつある。しかし今では「ドイツ」と「ブンデスバンク」は、全く異なった存在となっている。それは、新たに選出されたドイツ政権とドイツないしオランダのECB役員との間で、ドル-円-ユーロの「目標通貨圏」の提案について意見が食い違っていることにはっきりと現れている。恐らく、完全に明らかなのはこの点だけであろう。ECBの最近の発表(10月半ば)は、ユーロ圏における金融政策の在り方の一端を示したに過ぎず、それを巡る議論はまだ始まったばかりである。
ユーロ圏における金融政策の構造がどのようなものとなるか分かっていると主張するのは妥当ではあるまい。唯一できるのは、ユーロ圏の金融政策立案者が直面する最も難しい問題は何かを見極めようとすることである。筆者は(少なくとも)3つの主要な分野でジレンマが生じるものと見ている。こうしたジレンマは、適切なインフレ目標の定義、時に解釈が難しい地域経済の「シグナル」を与件とした上でのその実施、ユーロの為替政策策定にそれぞれ係わるものである。こうした難問はすべて、ECBが受け継ぐ遺産と透明性を巡る問題に帰着するというのが筆者の主張である。