晴れたら いいね―
地方分権・船出のとき
川島正英(地域活性化研究所代表)
どんな航海でも「期待と不安が交錯して…」という形容が常套句となっているように思える。1999年の通常国会で、関連法案をすべて整えることによって本格軌道へと滑りだす「地方分権型社会」に対しては、いっそうのことその感が深い。99年の地方政治・行政は、複雑な紋様を描きながら明けていく-。
「分権」は一括法で成立へ
地方分権推進計画は、98年11月、地方分権推進連絡会議によって、法律改正の形式を一括法案とし、内閣内政審議室に『一括法案担当室』を置き統轄すると決められた。大量の法改正を短時間にこなす類をみない困難な作業を進行させている。
改革の中核は、いうまでもなく、国の機関委任事務を自治事務と法定受託事務とに分類することにある。そして関与、必置規制、補助金などを4次にわたった地方分権推進委員会勧告に基づいて整理すること。つきつめれば、中央-地方の政府間関係を「上下・主従」から「対等・協力」に置きかえるのだ。
暗雲があらわれて
だが軌道に乗ろうとする分権を暗い雲影がおおいはじめた。分権推進委の第5次勧告に象徴的である。
中央の政治状況、とくに国会・政党で推進法制定時と決定的に異なってきた。55年体制の崩壊の起爆剤となった日本新党が「地方主権」を掲げ、政党それぞれが“地方分権基本法案"づくりに取り組んだこと、衆参両院が超党派で地方分権推進を決議、そして分権推進法成立と分権推進委の発足…。すべて政治のベクトルが大きくプラス方向へ働いていた。
3-5年前と様変わりなのだ。分権推進委は、第1〜4次勧告が法制化される時点を一区切りと見て、残る任期を監視活動に充てる考えだった。が、橋本前首相の再三にわたる強い要請で第5次勧告の提出に踏みきったのだが…。