また彼は次のようにもいっている。
「このコミュニティづくりについては、戦前の町内会の復活、市町村の人心懐柔策を狙う措置であるとする非難と、近代的市民組織の育成、市民意識の涵養をめざす施策であるとする支持とに見方は分かれている。だが、コミュニティづくりが、心配している市政の下請団体、町民の親睦会に止まるか、市政の変革を求める市民組織として成熟するかは、一つに自治体の姿勢と、市民の受け入れ態度にかかっているといえる。」(前掲、124頁)と。
だから彼の市政の展開は“聴く”ということから始まった。そしてまず行政の答弁のなかから“検討”という言葉を除いたのである。やがてそれがシステム化され、始動することによって、“自らもかわり、役所もかわり、そして市民たちも変わっていったのであるが、その結果、「まちづくりとは市民と役所との共同の作品」という市民意識の定着が確かなものとなったのである。それを彼は、「住民の選択と行政の選択の一体化」とも呼んでいるが、岩手県沢内村において「住民の価値感と行政の価値感の一致」といって村政への住民参加を進めるなかで当時としては法律にもなかった、老人と小児の保険10割給付をやってのけたことに奇しくも一致していて、自治体には大小の差はないということをこれで教えられたものである。
それはさておき、このような市長の試みはやがて、「神戸市になんとなく住む住民という感覚が、町を育てる市民という意識に成長しつつあるような感じがする。」という「町を育てる市民像」へと移行することになるのである。ともあれ、当初は対話どころか、陳情型や暴露型に終始していた市政懇も10年目の節目にもたれた記念シンポジウムでは流石とうならせられるような住民参加のメカニズムに成長していたのである。
話を婦人市政懇談会に戻そう。
先づ婦人会の単位は小学校区が多い。これは、神戸市における学校公園方式に起因するものであるが、これを単位コミュニティと考えることである。(もっとも、まち住区といって、一体的なまちの歴史のなかで培われてきた緩やかな地縁的つながりを、コミュニティ単位とする場合もある)毎年、六月から七月にかけて「町のことを考える婦人のつどい」という単位団体による地区集会がまず開かれ、日常生活に密着した身近な問題についての話しあいがもたれる。そしてそのなかの重要事項が区の総括集会のなかで各区全体のなかで見直されてゆく。その間、問題別懇談会や年代的懇談会が全市的な立場で、市政の弱いところを中心に問題をあぶり出し、これを各区毎に集約したものとあわせ、「市長に望む」という要望書にまとめ、市長に手渡すことを全市の総括集会のメインの行事とするのである。もっとも神戸市での懇談会はこれでは終らない。
大抵は4月、その要望書に沿うて、その年に実行に移されるもの、来年度にまわったもの等々市長自らが出席して説明するための報告集会がもたれることである。これが昭和43年から繰り返され、幾多の条例を生み、所謂、「権限なき行政」という用語までつくり出すに至ったのである。「よりよい明日の神戸のために」を共通テーマに、神戸市政は次第に、治めるものと治められるものという関係から、市民契約的な「私たちはここまでやるから、市でもここまで」という形へと次第に姿をかえていっていたのである。婦人団体は自らを社会教育団体と規定し、役所はこれを広聴活動としてあつかう。これも神戸市なればこそ、何の違和感もなく受取られている。たて割り意識のつよい日本において、見事な横割り行政の確立というべきであろうか。フィードバック回路をもっとは、こんなことであろう。
■地方自治、これからの展望
神戸市では昭和51年に「神戸市自動車公害防止条例」なる日本に例のない条例を敢て制定した。これも婦人市政懇のなかから産み出されたものであるが、その前文に次のような文言が出てくる。