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一、 温羅は傷ついてもすぐ温泉で治る。

一、 住吉大明神が童の姿で現われ一度に二矢を射るよう告げる。その通りすると一矢は喰い合うが一矢は温羅に当る。

一、 温羅は童に姿を変え、さらに鯉に姿を変えて逃れようとするが、鵜に姿を変えた吉備津彦に食われる。

一、 吉備津彦は温羅の首を串にさし、晒(さらし)首にするがいつまでたっても唸り続ける。

一、 そこで釜の底八尺掘ったところに埋め、温羅が生前に寵愛していた阿曽女に火を焚かせると唸らなくなる。吉備津神社のお釜殿がその釜であり、吉備津彦を祀ったのが吉備津神社である。

この鬼八と温羅をめぐる二つの伝承は明らかに関連がある。共に大和朝廷、あるいはプレ大和朝廷による異族討伐伝承であること、鬼神的異族の不死身性、火焚き乙女による鎮魂などのモチーフの共有に加えて、温羅伝説の火焚き乙女が「阿曽女」とされる事実は二つの伝承の強い親縁性を示唆している。

それにもかかわらず二つの伝承のきわだって違う点は、異族としてのあり方だ。鬼八が阿蘇、高千穂の先住民であるのに対して、温羅は一説に百済の王子とあるようにどうやら朝鮮系の異族と思われるからだ。

温羅が城を築いたとされる新山(吉備郡阿曽村黒尾)には、「鬼(き)の城」と呼ばれる城郭の跡があるのだが、近年考古学者によって古代の朝鮮式の城郭跡であると言われている。

さらに鯉、鵜などへの変身は高句麗の建国神話解慕漱(かいぼそう)と河伯の変身神話を初め朝鮮説話の一特徴となっているモチーフである。

こういった点から見るならば、大和朝廷の異族調伏説話には、異族のあり方の違いには無関係に、ひとつの説話構造学的ダイナミズムが働いていることがわかる。

さて、いささか専門的に傾きかけた説話伝承論はこの位にして、異族、鬼八に話を戻すことにしよう。

 

◎コオロギとツチグモ◎

 

興梠弥寿彦氏の、興梠というのは鬼八の子孫、つまり土蜘蛛で土着民だったという発言に衝激を受けたと、私は冒頭に書いた。

それは、それまで疑問に思っていたコオロギという特殊な姓の謎が、ゴルディオスの結び目を解くようにものの見事に解けた、と思ったからだ。

高千穂に興梠という姓があり、その姓は祝詞(のりと)のカムロキの転であろう、という話は私もすでに知っていた。だが、私が興梠さんの話から直感的に思ったのは、「コオロギ脛(ずね)」という狂言に出てくる長脛についての表現だった。

鬼八が土蜘蛛的存在であろうことは、この説話のあり方から私もほぼ見当をつけていた。しかし、興梠姓がその子孫だったとは。

あとで知ったことだが、御毛沼命の高千穂入りに際して土地の豪族・興梠氏は直ちに恭順の意を示して命を道の途中まで出迎えたという。興梠氏はさらにそれまでの居住地を命に譲り渡し自分たちは今の荒立神社のあたりに移ったという伝承が語り継がれているのだ。

興梠さんが鬼八の子孫だと言い切った根拠はこの伝承にあった。そして私を雷電のように打ちのめしたのは、コオロギとツチグモとの目から鱗の落ちるような連想だった。

これまで土蜘蛛と呼ばれている異族については、本居宣長を初めとする多くの学者は、蛛形類の地蜘蛛のように堅穴に居住するが故に、そう呼ばれたと考えてきたし、津田左右吉を初めとする学者たちは、土蜘蛛は蝦夷(えみし)と同じ単なる賎称に過ぎず、穴居や長い手足の記紀、風土記に見える描写は、土蜘蛛という名からくる連想に過ぎないと考えてきた。

私は興梠さんの発言に直覚的にこれらの説は違うなと思った。万葉時代コオロギは秋鳴く虫の総称だった。そしてそのとき私の瞼にありありと見えたのは、土蜘蛛の如く、コオロギの如く、山野を自在に駆けめぐっている鬼八こと「走健」の雄姿だった。

古老のいへらく、昔、風巣(くず)(俗の語に“都知久母”又、夜都賀波岐(やつかはぎ)といふ)山の佐伯、野の佐伯ありき(常陸国風土記)

 

 

 

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