明治以来の芸能の歴史を考えなくちゃいけない。今野村万蔵が中心になっていて、狂言といえば野村ということになっているけど、ずーっと見ていると必ずしもそういえない。
大正時代になって無理矢理作った張りぼての国家とか、そういうものに対し疑いが出てきた。張りぼての美術館、ダダの連中は、日河水泡にも現れているけど、町に一回散ってしまった。美術の持っている仮設性を自ら演じていたのはそのころの人間だったんじゃないか。それで復興過程の銀座商店街のファサードをアヴァンギャルドの持ち味を生かして木下用語でいうハリボテの街を作った。その前に小杉未醒とかいて、漫画に流れていった。馬鹿馬鹿しさまでいかなかったために、洋画の端をつまんで日本国の風刺画に応用したかたちで、それも後が続かなくせいぜい雑誌や放送にいいところを吸い上げられておしまいになっちゃったという感じがある。本当に馬鹿馬鹿しさを一回やったのは、大正アバンギャルドの人たちです。仮設性というものを見世物ということで、美術史、文化史そのものを問題提起として木下さんは据えたところに大きな意味がある。見世物学会(註1])の精神の軸はそこにあると思う。
◎都市にモニュメントを求めた時代◎
木下……展覧会の準備で、このところ銅像をずっと調べています。銅像というのは、モニュメンタルなものだとつくづく思う。なにしろ人の形を鋳型にとって、永久に残そうとするのですから。そんなことを大まじめに考えていたのですね。政治家などは、今も銅像になりたい人があとを断ちませんが。
山口……ちんちん電車が走っていた頃、今から一五年前に、日比谷公園のあたりを歩いていた、そこにイタリア人らしき人が話しかけてきてね、英語分かるかと言う。英語ではなくてイタリア語話せると言ったら、日本にそんな人がいると思わなかったとびっくりしていた。そして浅草を案内してあげた後感想を聞いたら、いろいろ知らないもの見て本当によかった。観音様の門があって、その裏に大きなわらじがある。こんなのは、他の国やイタリアでは見られない。あえて不満を言えば、モニュメントが少なすぎる。ヨーロッパで石像や銅像がなかったら都市といえない。いや、戦前はあったのだけど、戦争に負けて壊されたんだ。そのかわり、わらじのように面白いものが都市に残っているんだと言ってやった。
木下……ヨーロッパ人が来たら、東京は仮設の町にみえるでしょう。ハリボテの町と言うか。
大わらじのすぐそばに日本で最初に作られた、女性の銅像があるのです。大熊氏広の手になるものです。大熊は靖国神社に大村益次郎の銅像を作った人です。座布団の上に正座している可愛らしいおばあさんです。
山口……大阪の飛田新地の座布団売春みたいな感じがする。
木下……銅像の人物というのは胸を張って直立しているのものですが、日本に入ってきた頃はまだ和服を着ている人が多いし、正座というぐらいで、座った姿勢が正式だった。