◎運否天賦の旅は続く◎
一九七七年、ちょうど私が三十歳の時に、見世物興業の世界に飛び込んでから長い時が経った。秘密の蝋人形館は大学の先輩である松崎二郎を太夫元[註17]]とし、花巻のみつるちゃん、それに私の三人の新参者から成る一風二風変った見世物小屋だったが、数年で解散した。
その当時のことについて触れるには、高市を前にしてあまりにも時間が足りない。
記憶もあいまいだ。当時稚内の分方[註18]]さんはオガタさんだったかオバタさんだったか。見世物興業の世界では分方がヤサ[註19]]を用意してくれる場合がままある。小屋組みからバラシまで含め、次の高市までの待機。長い時はひと月もひとつの町に留まることもあるためだろうか。
オバタさんが用意してくれたヤサは、オホーツクに面した防波堤間近の潰れた割烹だった。カビ臭い、だだっ広い板場で自炊した。メニューは毛ガニの刺身。鍋。オバタさんがトロ箱[註20]]二杯で、毛ガニ二十杯程も差し入れしてくれたものだ。
オバタさんの部屋は別棟の二階だったろうか。ゴムの葉やブーゲンビリアの南国の植物が茂る部屋で見せてくれたのは、マッチ棒か妻楊枝を、ちゃんと丸太のように削った、およそ三千本からなるサーカス小屋の模型だった。正面入口の上部に楽隊の席がしつらえてあり、小屋中央だったろうか、望楼もあった。
これだけの九大を集めるのに近在の馬車を総動員して、すでにこの時点からサーカスは始まっていたのだが、この地に、おそらく付け荷としての見世物小屋を含めれば、広大なカーニバル会場が出現したであろう。もちろんこれに正体不明の男や女、馬賊といわれる博徒。二十杯もの毛ガニには、往年の、分方さんが生きた時代にいきなり飛び込んで来た、変り種の見世物に対しての思いがのっかっていた。
海猫の悲痛にさえ聞こえる最果てである。言葉もろくすっぽ解らない見世物興業の世界。唖然とする大量のうごめく毛ガニ。秘密の蝋人形館の三人の若い男は髪の毛の先まで泥酔したに違いない。高市、見世物はいかがわしくも生身であって、足踏み入れたのが運の尽き。運否天賦の旅は続いている。見世物の口上めいて、この稿はおしまいです。
〈飴細工師〉