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股の内側に両手をついて身体を持ち上げ、足を上げてカニを模した横歩きをした。針と糸とを口にふくんで穴に糸を通す「マツバ」という芸や、足先で筆を操り「松竹梅」「福寿」など縁起物の書を画く芸も披露。半紙を横に置いたままでキレイに縦書きの文字を画いたり、ひっくり返しの文字を画き付けて半紙の裏側から客に見せたり、左手を使った洒落た技も持っていて、仕上げには口にくわえた小筆で「花山春風(はなやましゅんぷう)」と署名を入れ、朱印まで押した。画き上がった書は、心付けを置いて持ち帰る客もあり、多田さんによれば「後の総理大臣の大平さんも感心して見入っとった」というから、なかなかの書体だったのだろう。

イチロウさんは、多田さんの小屋に来て、わずか三年足らずで世を去ってしまう。興行に訪れていた函館で急死したのだ。行年七十三歳。医者の見立ては「老衰」であったという。舞台の上では袴姿で昔ながらの口上を織り混ぜて演じていたが、普段は寡黙で穏やかな人だったらしい。飲むほどに字がうまくなると言われたくらい酒が主食で、晩年はろくに食物を摂らなかったようだ。金沢の生まれで、三重県の松阪に妻子があったが、見世物芸人としての人生をまっとうしたような客死だった。

イチロウさんが死んだ四十九年の北海道巡業は凶方に当たっていたのか、函館から三カ月遡る札幌の興行では、最終日に多田さんが吐血して入院、検査の結果、初期の胃ガンであることが判り、切除手術を受けている。

ナミちゃんは客を呼べる太夫だったが、行く先々の小屋でなぜか親方が死んでしまうので、「太夫元(興行主)喰い」「太夫元殺し」との異名が囁かれていた。幸い多田さんの胃ガンは完治し、ナミちゃんの不吉なジンクスも終止符を打つ。

それでも、多田さんは、腸閉塞による入院、峠の坂道でブレーキの効かなくなったトラックから決死の脱出を図っての足の骨折、小屋の上部から転落して腰の骨を圧迫骨折等々、病気やケガと縁のある人だった。

ナミちゃんとイチロウさんがやって来て、最初に多田さんの小屋の舞台に立ったのは、四十七年神戸・生田神社の正月興行だった。田中角栄内閣初の予算が審議された翌年は「福祉元年」とされ、新聞各紙はこぞって社会保障問題を取り上げている。

多田さんの小屋も、「身障者を喰いものにしている」とする投書を新聞に載せられたことがある。投書したのは福祉施設の職員だった。

「良識」は、見世物小屋に足を踏み入れ、その"場"に精神の局部を晒し得た者個人が自らに問えばいい。しかし、行政を動かすための「良識」は不特定多数の「一般市民」のものであり、それは時代のムードを反映して移り変わっていく。因果モノの絵看板を小屋に掲げるのも憚られ、何だか自分が悪いことをしているようで、芸人が舞台に出るのを嫌がった時期もあったと聞く。

この頃、多田さんは別の見世物興行主のお伴として、役所への陳情に参じたことがある。手の不自由な見世物芸人に福祉の手当を求めたところ、「鍋釜は、,こうやって(肘で挟んで)持てるだろう。生活は充分できる」とにべもなく断わられている。人々に中流意識が芽ばえ始めていたが、社会保障はまだまだ貧しいものだった、そんな時代だったのだろう。

新聞に投書をしたくだんの福祉施設職員は、身障者数人を連れて多田さんの小屋に押し掛けたことが何度かあったが、数年後、施設の金を使い込んで懲役をくらったのだと地元の人が教えてくれたという。

 

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右・吸血女の看板(賢犬タコの名演技[左側])左・逆さ踊りをするナミちゃん

 

 

 

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