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薬師寺鎮守八幡宮の女神像

 

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観世音寺絵図

 

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宝満山風景

 

そして、その場所として私が思いつくのは、平安末期成立の古図を写しかえたと思われる「観世音寺絵図」(図5])に掲載された観世音寺西大門の側の宝満宮の存在である。この宝満宮は観世音寺境内に今は無いが、太宰府の東北鬼門の位置に聳える宝満山の竃門神を祀った宮と考えられる。宝満山では古くから太宰府鎮護のための国家的祭祀が行われ(図6])、さらに奈良時代には山麓に竃門山寺が創建され、最澄も入唐に先立ちこの寺において渡海の安全を祈り薬師仏四躯を彫った。以後、竃門山寺は天台宗との繋がりが強く、天台系の僧侶は入唐・入宗の際に必ず篭門神に祈願をささげている。また。この竃門神は「宝満大菩薩」と称し大分・宇佐神宮の八幡神と同じ菩薩号を有している点と、系図より博多湾の筥崎八幡の伯母とされる点が注目される。実際、宝満宮(竃門神社)は天台宗と共に八幡神との関係も深く、観世音寺の宝満宮に関して言えば、延喜二十一年(九二一)に八幡神の神託が観世音寺の西大門において下され大分宮から宮崎営に遷座されたという記述もあり、観世音寺境内の宝満宮創建もその位置関係より八幡神の神託の関与が窺われる。すると、天台系図像の影響が示唆されるこの兜跋毘沙門天像は、宝満山の竃門山寺あるいは竃門神を媒介として、観世音寺の宝満宮に祀られていた蓋然性が浮かび上がってくる。

そして、この宝満宮に兜跋毘沙門天像が祀られた理由は、平安初期における太宰府と新羅との関係が考慮できるのではないか。『続日本紀』には、承和九年(八四二)に太宰府大貳藤原衛が国防上の理由により新羅人の太宰府境内立ち入り禁止を上奏した記事が載り、また、観世音寺も古くからの対外政策の拠点であった太宰府政庁と歩みを共にしていたため、夷狄撃退の安西城毘沙門説話にからむ兜跋毘沙門天像が新羅対策のため観世音寺の宝満宮で拝まれたとも考えられる。『峯相記』(南北朝成立)には、天平宝字八年(七六四)に新羅の軍船が播磨国に攻め入った際析願した十一体の勝敵・兜跋(毘沙門天)の記事が載り(そのうち四体は八幡宮に安置)、宝満山の竃門神は太宰府鎮護の要素が強い。竃門神のイメージがオーバーラップする兜跋毘沙門天の造顕に関して、新羅撃退の意味が込められていたのだろう。しかも、竃門神は土着の自然発生的な農業神かつ山の神と大陸系のカマド神が習合した祭神であり(注2])、宝満山は福岡平野をうるおす御笠川と筑紫平野をうるおす宝満川の分水嶺の聖なる山であることを考慮すると、本連載で追求してきた兜跋毘沙門天のサイノ神性や山の神性とも一致し、私の思考の傍証になる。

観世音寺の兜跋毘沙門天像は、夷狄撃退の願いと共に、土着の地母神である地天女と外来のサイノ神である毘沙門天が合体した、まさに兜跋毘沙門天の本質を垣間見せてくれるのである。

 

 

 

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