古代九州の仏教文化の中心地であった福岡県太宰府市の観世音寺には、今なお宝蔵(収蔵庫)に往年の姿を彷彿させるかのような古仏や巨像群が安置されている。その中で一番の古様を示す“仏像”に、兜跋(とばつ)毘沙門天像が挙げられる(図1]、注1])。この像は高さ一六〇センチでクスノキの一材からなり、おそらく平安時代初期に造られたものであろう。その優れた造形性から、私は東寺像や成島毘沙門堂像と並んで、日本に残る兜跋毘沙門天像中三本の指の一つに数えている。
毘沙門天の形態は、髻(もとどり)を高く結い上げ、彫りの深い目鼻立ち、 つり上がった眉、眉間のしわ、引き締まった口の動きを一点に集中させる忿怒の形相を表し、広袖の衣の上に唐風の皮甲を着て、獅噛を両肩、両脛、腹のベルトにつけ、胸甲には鬼面を配し、腰を左にひねって右膝をゆるめたスタイルをしている(各部に大幅な修理が施され、持物などは後補)。地天女(ちてんにょ)は雲状の台座(新造)に上半身を現し、尼藍婆(にらんば)・毘藍婆(ひらんば)の二鬼は地天女の背後に隠れるように蹲っている。このような唐風の皮甲を者る服制と地天女の背後に蹲る二鬼の形勢の起源は、後述する『別尊雑記』(べっそんざっき)の兜跋毘沙門天図像(図2])に求められる可能性があり、また、後者の特徴は比叡山伝来とされる現ボストン美術描所蔵の兜跋毘沙門天図像(毘沙門天曼荼羅、図3]にも見られ、観世音寺の兜跋昆沙門天像に比叡山天台系の図像の影響が示唆される。
しかし、この兜跋毘沙門天像の文献的裏付けは、江戸時代の『大宰管内志』の記事より遡り得ない。この像が、いつどこで造られたか定かでないばかりか、康治二年(一一四三)の「観世音寺年料米相折帳」に本像の記載がないため、中世以降どこからか観世音寺に移管された可能性が指摘されている。だが、私はこの兜跋毘沙門天像も元から観世音寺に安置されていたと考えている。その理由は、この像の地天女の姿に隠されている。
地天女は、大きな団子形の単髻(たんけい)を結い、頭髪を胸前に垂らし、広袖の衣の上に袍(ほう)を纏(まと)い、両掌を捧げ毘沙門天を差し上げている。面貌は丸顔で切れ長の目をもち口元に少し笑みを浮かべた、まさに女神たる風格を備え、平安初期の女神像の代表例である奈良・薬師寺鎮守八幡宮の女神像(図4])にも匹敵できる見事さである。けっして毘沙門天の下で埋没した存在となっていない。その意味から、この地天女は、薬師寺の女神像のような在地を守る地母神としてイメージされているのではないか。このように考えると、観世音寺鎮守の地天女と毘沙門天が合体した本像も、寺内のどこかの堂塔・本社に祀られていた可能性がある。