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高橋義彦と『越佐史料』…井上慶隆

高橋義彦は吉田東伍の実弟で、新潟県北蒲原郡保田(やすだ)村(安田町)旗野木七の四男として明治三年(一八七○)三月十日に生まれた。三男の東伍より六歳の下である。学歴はわからない。当時の素封家同士の縁組で、東伍は同十七年に中蒲原郡大鹿村(新津市)吉田家、義彦は二十二年に同郡海老ヶ瀬(えびがせ)村(新潟市)高橋家の養子となった。名は初め三代三郎であったが、三十年一月十五日の「新潟新聞」に改名広告を出し、以後義彦となる。

高橋家は近世以来の大地主で、明治二十年「米商必携」(「新潟県地主資料」一〇)では売米数四五〇〇俵。ちなみに保田の旗野家一三〇〇俵、大鹿の吉田家四〇〇俵である。

義彦は、兄東伍の『大日本地名辞書』著作の際、越佐の史料収集に協力したのを契機に『越佐史料』の編纂・発行に没頭、昭和六年(一九三一)四月三十日六十一歳で死去した。死の直後に出た巻六を最後に事業は中絶した。

越佐史料とは 『越佐史料』は編年体の史料集で、年月日の順に綱文を記し、それにかかわる史料を載せる。一例として巻五の中から、上杉謙信没後の御館(おたて)の乱で養子景勝が義兄景虎を倒し勝利を得た天正七年(一五七九)三月二十四日を挙げてみる。

綱文は「景勝、連日景虎ヲ鮫尾城ニ攻ム、城将堀江宗親降リ、是日、城遂ニ陥リ、景虎自殺ス」と簡潔に事実だけを記しているが、典拠として載せた史料は「歴代古案」「築地文書」「上杉古文書」「佐田舎人覚書」など一二種を数える。

各史料の文言や真贋を考証して何を選ぶか、編者の力量が問われ、特に書状などは、月日のみの場合が多いので、内容を吟味して年次を推定しなければならない。また記された人名・地名が当事者に通じるだけの略称の時は、傍注・頭注を付ける必要がある。たとえば右の「歴代古案」の文中の「三郎」の傍らに(景虎)と注記があって、これにより読者は景虎の死を知ることができるのである。史料の正確・適切な提供が主目的であり、事件や人物についての判断は読者にまかせられる。

編纂作業と高橋義彦 ところで『越佐史料』の編纂には、東京大学史料編纂所の渡辺世祐・花見朔巳・布施秀治ら著名な歴史学者の参加があり、いっぽう義彦が前記のように資産家だったことから、彼を理解ある出資者としかみない向きもあったが、実態はどうだったろうか。

吉田東伍記念博物館に展示してある「越佐史料雑録」は布施秀治の手控え帳で、中に大正十四年(一九二五)のものと思われる義彦から布施に宛てた手紙が多数挿入されている。

 

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越佐史料原稿にかこまれた高橋義彦

 

 

 

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