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安田町の傍を阿賀野川が流れる(撮影=(株)北都

 

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明治期の保田の町並み

 

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1970年当時の生家前(北東方向を見る)。生家の前には用水堀をかねた町川が流れていた

 

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生家の近所にある江戸時代の防火土墨、火除土手

 

百姓代や村庄屋をつとめた家柄で、一八世紀の半ば頃からは食料品や日用雑貨品、建築用材にいたるまで手広い商いをし、東伍が生まれた頃には質屋、酒造業まで営んでいる。代々学問好きな家系で、各地から頻繁に文人墨客が訪れ逗留し、最新の知識や情報がもたらされた。生家の周りには江戸時代の庶民の知恵を伝える「火除土手」などの史跡や由緒ある社寺が豊富に存在していたし、家には地元の歴史を記録した古文書や絵図面なども多数伝わっていた。こうした環境はその後の東伍の「郷土」への関心を誘発するに十分なものだった。

一八七二年(明治五)、学制が制定されると東伍の父旗野木七らは小学校創設に向けて村民の先頭に立ち、翌年には異母弟旗野十一郎を校長に据えた「必勤舎」の開校にこぎつける。学校といっても寺子屋のしくみを少し大きくしたようなものだったが満八歳の東伍は創立されたばかりのこの小学校に胸を躍らせて通った。

その年の元旦、東伍は乳母に連れられ、村の鎮守に初詣に出かけている。その出立ちは、廃仏毀釈を率先した旧旗野家の子供にふさわしく、羽織り袴に小刀を差し、頭には小さなマゲを結った正装だった。東伍の弟の義彦が「先代萩の鶴千代君のように見えた」と記憶しているほど、人込みの中でも一際目立つファッションだったらしい。案の定、それを目撃していた近所の悪童たちは、学校の東伍の机や練習帳にチョンマゲ姿を落書きしてからかった。断髪脱刀を経て洋風風俗が地方まで急速に波及しつつあった当時、越後の農村の子供たちでもチョンマゲが「文明開化」と相容れない旧社会の残滓群であることぐらいは常識となっていた。

 

 

 

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