一九〇七年(明治四〇)十月十五日、上野の精養軒で、当時の日本を代表する知識人や政界の大物など、各界から百五十余名が出席する大パーティーが開かれようとしていた。パーティーの名称は「大日本地名辞書完成披露祝賀会」、そしてその主役は早稲田大学で教鞭を取る在野の史学者吉田東伍、四三歳である。
続々と到着する参会者の眼は、会場正面に積み上げられた原稿用紙の山に釘付けとなった。美濃紙数十枚を四つ目袋綴じにした冊子が四百六十九冊、高さが十五尺(四メートル半)もあったからである。「常人の成せる技ではない」「空前絶後だ」口々から驚きと称賛の言葉がこぼれた。
午後四時一同が着席し、前島密が開会の辞を述べた。
「これまでにも種々事業の発展とか成功とかいうものの祝宴会が開かれてきたが、学者の大著述、大苦心の結果を慶賀して宴会を開いたというのは世間にはない。おそらくこの会がそういう祝宴については、蓋し嚆矢ではなかろうか。どうかこれより先はこのような会を盛んに開かれるように希望する。続々あって日本の文化を盛んに示すようにいたしたい」
来賓各人の長広舌が続いた後、大隈重信は十数分に及ぶ演説を「日本ばかりか世界に誇るべきもの」と結んだ。
挨拶に立った吉田東伍は「学問という柄でもないのに志を決めてその学問に取り付いたがため、十年余りを経て辛うじて一書の始末をどうやらこうやらするという大のうかつ者です。自分の力をもよう測らず、出合い頭に筆を取って戦争を始めたような次第。しかし諸方の方々のご助力、おかげをもちまして、どうやら筆折れず墨尽きず大敗北にはならなかったというくらいであります」と述べて満場を沸かせた。
こうしてわが国で最初に行われた(と推定される)出版記念パーティーは延々五時間に及んだが、その様子は「本会は其の性質上、希有の会合とて一種の異彩を放ち、何となく神聖に感ぜられたり」(『読書界』第一巻付録)と報道されたように盛会をきわめるものだった。
東伍が十年余りもかけて始末をつけたという「一書」とは、冨山房発行の『大日本地名辞書』、完成からほぼ一世紀を経た今日も現役で活用され続ける文字数一千二百万字の巨編である。
◎生地安田での少年時代◎
『大日本地名辞書』の著者吉田東伍は、一八六四年(元治一)、越後国保田町村(現在の新潟県安田町)の裕福な山林農家、旗野家の三男として生まれた。二〇歳の時に阿賀野川対岸の大鹿新田(現新津市)の吉田家へ養子になるまでこの地で育った。東伍は地名辞書の中で自らの生地を次のように記している。
今安田村と云ふ、赤坂の西南にして、小駅市也、阿賀野川へ近し、新潟新発田より津川若松等に通ずる一站とす、新潟七里、津川七里、新発田六里。○方俗安田ダシと称する東南風は、阿賀野川の峡谷に起こり、安田の地其風口にあたるを以て此名あり、春夏の頃殊に多く、連日止まざることあり。安田は貞享二年安字を改めて保を採り、保田町と云ひ、今も大字には保田を依用す、此町昔火災ありしに安田の反切は煙なれば、其安字を忌むべしとて改更したりと、拘忌の陋習笑ふべし。
安田は阿賀野川が福島・新潟県境の山間を抜けて越後平野にさしかかる開口部右岸にある。古くから水陸の交通の要衝で、近世以降は宿駅在町として栄えたが、その立地から「安田ダシ」と呼ばれる東南東の局地風がしばしば吹き荒れ、火災が絶えなかった。ダシ風と並行していた町並を、利便性を犠牲にして風向と直角になるように改変したのが一七世紀の後半のことで、地名の「安田」を「保田」に変えるという苦肉の縁起かつぎをしたのもこの時である。
東伍の生家はその保田の中心部、十字路のかど地にあって、「角屋」と呼ばれた旧家である。