川との関わりが深いゆえに、川魚を食べ続け、新潟水俣病の被害者が集中する千唐仁は、私達の映画にとって重要な舞台であった。ところが、寛蔵さんは川仕事とも、水俣病とも無縁な人である。その意外な人の口から、阿賀野川への熱くて深い思いの丈を聞いて、私は目が開かれる思いがした。この地の地名や伝説や言い伝えは、ほとんどすべて阿賀野川の暴れ廻った流路に関係している。それほど、阿賀野川はこの地にとって大きな存在である。
「百姓仕事のかたわら、聞いて廻ったお話ですが」と照れくさそうに前置して、市川寛蔵さんは滔々と阿賀の流路の変遷の話をされる。そして最後には、きまってこの清い流れが汚されたことへの静かな怒りでしめくくるのだ。
市川寛蔵さんと同じ千唐仁の、生枠の川船頭である市川栄作さんは、物静かな方である。新潟水俣病の被害者の運動のとりまとめ役として、本当に大事な人であった。人前で話すのは苦手だから、自分の体の続く限り、裁判や集会には参加して、我が身丈で村をまとめていくまとめ方をされる方だった。その市川栄作さんが肝臓ガンに倒れ、見舞先の病院で最後の闘病の姿に接した。食べものも薬も水も体が受けつけない。それでも我家の井戸の阿賀の水だけは、口にすることができた。市川栄作さんの最後の命は、阿賀の水だけしか支えることができなかった。
人は、こうやって阿賀野川とともに生きている。目に見えないところで、阿賀とつながって生きている。阿賀野川でなくてもこんな話はどこにでもあるだろう。だが、この地に生きる人にとっては、阿賀野川でなくてはならないのだ。そういう風土のあり方を私はうらやましいと思っている。
<映画監督>
写真撮影=村井勇