谷川…本質だけで書く。しかも文章が完結している。漢詩の素養が文章に出るのでしょう。資料でも木の葉一枚を取ってきてそのまま写せばいいというものではありません。いずれ葉肉は腐っていきます。しかし葉脈は残ります。東伍の文章は葉脈です。本質から本質へ飛んでいきます。七言絶句や五言絶句のように東伍の文章は行間がさわやかです。志賀重昂は次のように書いています。
「其ノ所説ノ是非ハ兎モ角、宛然堂々タル大論文タリ、而カモ世ノ学者、其ノ引用ノ該博ナルモノハアリ、参考ノ広大ナルモノハアリ、知識ノ豊富ナルモノハアリ、然レドモ該博ナルモノハ前後撞着ニ陥リ易ク、広大豊富ナルモノハ常ニ断案ニ朦朧タルヲ免レズ、是レ資材ノ多々ナルモノ、短所ニシテ、今ノ学者ニ最モ多ク見ル所ノモノトス。独リ著者ハ引用該博ニシテ論議愈々精深トナリ、参考的知識ノ広大豊富トナルヤ、推理ハ益々鋭利トナリ、本書中ノ四万四千項ハ一トシテ断案ヲ下サズニ措ケルモノナク、而カモ這般ノ断案ハ万釣ノ鉄槌ガ一下スルニ似タルモノ、実ニ此書ノ特得トナス。
是ヲ以テ這般ノ項目ハ単煮一項ヅツヲ引離スルモ、皆ナ以テ一篇ノ論文、一部ノ者述トナスニ足レリ、断案又断案、無慮四万四千ノ断案、『大日本地名辞書』ガ真正ノ価値ハ全ク此ニアリ。」
これは吉田東伍に感服した人の文章です。『大日本地名辞書』ができたのも韋駄天が一夜にして山を作ったような気がするくらい、巨人、超人の業です。
なおかつ、治水の問題に以前から関心があったようですね。『利根川治水論考』を四十七才の時に書いています。
渡辺…明治四十三年(一九一〇)に、「江戸の治水と洪水」というテーマで歴史地理学会の講演を東京でしています。この頃関東地方で大洪水があったのですが、「人間は水と共に生活して、水と共に戦うというのが人間本来の性質です」というんです。また私が一番感激しましたのは、「人間の方から水の領分を侵略するから、水の方も時々我が旧領を取り返そうということになるのである」。無理な治水といいますか、治水と称して水の自由を奪うことを時々人はやるけれど、それは洪水を引き起こすんだということを言うんですね。特に『大日本地名辞書』後になりますけど、人間の歴史は、水との戦いの歴史であるとして、治水と開発、開墾の問題を中心テーマにして、ずっと勉強しています。
東伍の生まれ育った安田は、阿賀野川の袂にあって、子供の頃から洪水を見ているんです。自分の家も農家で、河畔の耕地を開墾している。地主といっても戸主が先頭に立って鍬鋤を持って開墾する家ですから、恐らく東伍も鍬を持って出かけたこともあったと思います。だから治水、開墾の中で育った文化を子供の頃からの経験でよく理解できたのでしょう。それが結果的に関東一の大河川、利根川の変遷と人間の歴史と結びついて『利根治水論考』が誕生した。
谷川…東伍は最後の数日間を利根川の河口で過ごしたことは、象徴的です。東伍の病名は何ですか。