谷川…私は「吉田東伍博士追懐録」(大正八年刊)の付録に載せられた吉田東伍の歌『松雲詠草』を見ていましたら、その中に北海道にてという歌が載っていました。それに「思ひきや忍路のうらの苫の家のつまなしの實の秋のかなしき」「遠くとも逢はで止まめやおかもひの岬さへ今は越え渡る世に」不思議な歌です。「おかもひ」は「おたもひ」の誤植と思います。忍路は美国の近くです。
渡辺…北海道に渡ったということをどう見るかということですが、大志を抱いて渡ったとする積極的評価と、もう一つは何かから逃避するために渡ったのではないかとする見方がある。どちらにもとれるのです。当時、改進党は選挙で大敗するわけですが、そういう絡みもあるのかなと考えてみるのです。
谷川…この歌は個人的な事情が伏在しているような気がします。
北海道時代に北海道から帝国大学史学会ヘ投稿している。
渡辺…地元(北海道)の新聞などに投稿しているのですが、前半と後半で投稿の内容の傾向が変化するのです。前半は政府の北海道政策を批判するアジテーション、政治的色彩の強いものでした。後半、史学会に入ると、もっぱら史学に関するものを投稿するようになって、アジテーターとしての色が失せる。田口卯吉に対する反論を雑誌『史海』に投稿し、田口の反応を見極めた時点あたりから東伍の心境に変化があったのではないかと予測してみるのです。
谷川…歴史への関心がここで生まれたと考えられます。
◎未完成の小川弘『日本国邑志稿』◎
谷川…次の問題ですが、北海道から上京して市島謙吉方に身を寄せ、読売新聞に入る。その後二年で膨大な『日韓古史断』を出版する。半年ぐらいで書いたということを聞いたことがあります。
表面的な年譜を追いかけると一年、二年毎に切れていきます。しかし底流では『安田志料』から『日韓古史断』を出すことまで一貫して緊がっている。素養もなければ蓄積もない一青年が、突如としてこういう本を書くということは、どう理解したらいいのでしょう。家系というか家の雰囲気というかそういうものが背景になければ、普通の人間にはなかなかできないです。
井上…東伍は江戸時代の文人のタイプだと思います。専門などというものにこだわらず、関心のおもむくまま、 いろんなことに興味を抱く。母方の五泉の和泉家は、酒造はじめ手広く商売する一方で、代々国学・和歌をたしなんで、歌集を刊行している。そういう伝統も受け継いでいます。
渡辺…旗野木七も和歌です。
谷川…坂口安吾は新潟で生まれ、お父さんは有名な漢詩人でしたね。東伍とどうした関係になりますか。
渡辺…坂口仁一郎(にいちろう)(五峰(ごほう))といいます。東伍は日清戦争の際に読売新聞の従軍記者を志願するのですが、五峰が海軍に口利きをしているのです。東伍と年齢差はありましたが、五峰が広島の大本営に天機奉伺で出入りしていたので、たまたま東伍と会うのです。
井上…東伍と五峰は、学統の面で同じ流れにいます。東伍の名が、五峰が後に社長となった「新潟新聞」に初めて載るのは明治十六年(一八八三)五月二十六日で、まだ「旗野東伍」です。父の異母弟で義父でもあった旗野十一郎の叔父小川心斎の『策府』刊行の責任者としてです。東伍は心斎の学問を知り、その系譜にあることを自覚していたと思います。心斎は新発田の丹羽思亭の高弟でした。
安田に近い新発田藩の藩学は、朱子学の中でも厳格なことで知られる山崎闇斎学派で、他の学派は禁じていました。そこに学んだ丹羽思亭は、堅苦しい闇斎学に飽き足らず、江戸に出て松崎慊堂に入門します。慊堂は渡辺華山の師として知られるように幅広く実証的な学風でした。思亭はさらに慊堂のすすめで幕府儒官林家に師弟の礼を取りますが、これが闇斎学にこだわる藩校道学堂の教授たちの逆鱗にふれ、藩を追われて、城下の塾で在野の人材を育てることに専心します。門下で特に聞こえた一人が小川心斎であり、もう一人が大野恥堂です。恥堂の愛弟子が坂口五峰でした。