二十一歳に志願兵として仙台に行く。日曜ごとに図書館へ行って本ばかり読んでいる。満期で除隊した後は、白鳥が来る水原小学校訓導(教員)となり、二年間勤める。
二十七歳で安田の政談演説会に出演しますが、この内容はどうなのですか。
渡辺…市島春城はあの辺の改進党ボスでしたから、多分、市島から言われたのでしょう。
その改進党の演説会が開かれたのは、明治二十三年(一八九〇)五月二十六日のことです。安田名物の「ダシの風」が吹く中、会場には二百名以上が集まりました。そこで東伍が閉会の挨拶をしたと、当時の『新潟新聞』に出ています。東伍は改進党の地方組織である「同好会」の会員だったことが確認されています。
谷川…その後、単身で北海道に渡る。これがまた不思議ですね。この時には既に吉田家の養子に行っていましたから、妻子はいたんでしょ。
渡辺…ニ歳になったばかりの長女がいます。親兄弟誰にも言わずに北海道に行っているんです。一年二ヵ月北海道にいるのですが、最初の頃はまったく消息不明でした。弟の義彦が『追懐録』に書いていますが、親類縁者は困り果て神仏にお願いして…と神頼みまでしている。また妻かつみさんの心労は大変なものだったとあります。弟義彦は東伍の分身といわれるくらいの仲なのですが、弟にさえ打ち明けていなかった。後に東伍は青少年向けの雑誌に回顧談的な文章を載せますが、そこでも北海道時代のことはどういうわけか語ろうとしない。
しかし東伍の歴史地理学者としてのデビューは北海道にあるわけですから、何か北海道にあると思います。一番肝心なところを語っていません。残されている日誌には、美国の道庁支所の雇い書記になって、鮭川や山林の巡視などをしたと断片的に書かれています。足取りは分からないけれども、『人類学雑誌』に美国の遺跡の踏査報告を投稿しています。