ちょうど平凡社と角川書店が、せり合うように地名辞典を編集していて、新潟県の巻が始まると、双方の担当者が相次いで県史編さん室に見えました。そしてライバルのはずの両社が「この辞典で私たちは『大日本地名辞書』を越えたいと努力していますのでよろしく」と、 ハンコで押したように同じことを言うのです。大規模な組織をつくり、各地の研究者を総動員している両社が、コピーもパソコンもない何十年か昔の東伍個人の業績と向き合わざるをえなかったわけです。
それから県史の中世史部会は、佐藤進一先生はじめ、学界の第一線で活躍中の藤本久志・羽下徳彦・桑山浩然など県出身の方々が指導に当たられましたが、会合のたびに問題になるのは、『越佐史料』の存在を前提として、いかに特色を出すかということでした。
また長野県や関東圏、つまり上杉氏が関係した諸国の県史編さん室を訪ねてみますと、どこでも『越佐史料』を、越えるべき重要な参考資料としていました。
ところで昭和三十年代後半に、私は『北越雪譜』の校注作業のため、県立図書館郷土資料室によくいきましたが、当時、東伍の長男吉田春太郎さんが嘱託をしておられました。安田町の石山昭而氏の作られた「旗野家略系図」によると、昭和四十五年に七十七歳の没ですから、七十歳の頃です。郷土資料室といっても、書庫の一隅に春太郎さんの机と閲覧者用の小さな机があるだけで、閲覧者もめったにおらず、のんびりした雰囲気だったように思います。目録なども不備で、そのかわり「越後名寄」とか「北越奇談」とか書名を言うと、春太郎さんがゆっくり書架へ行って迷わずすっと出してくださる。和書だけでなく雪譜に引用されている「五雑俎」「太平広記」といった漢書も、なぜか郷土資料室にあったようで、これらも迷わず出してくださる。この種の文献の存否だけぞなく、それぞれの内容なども聞くと、にこにこ教えてくださるが、そこまでで、それ以外の話をした記憶はありません。
その春太郎さんが『越佐研究』十号(昭和三十一年)に「旧越後地誌類の成立」という論稿を載せておられます。「越後名寄」以下の越後地誌類の書誌とそれをめぐる文人の動向を原史料のみによって的確にまとめ、最後に、越後の地誌に藩選は一種もなく、全てが民間人の手になると指摘、「越後国土は本来野志的素質を持てりと言う可きだ」と結論しておられます。
この結論はすごい。私は新潟県史編纂に関わってきましたが、中小諸藩割拠ともいうべき越後に一国をリードできる雄藩はなく、文化の諸分野はもちろん、近世の社会や産業の本質も、結局この一文に帰着するように思います。新潟県を中央依存の体質の強いところと見るのは、現代の一部の事象にとらわれた人々の偏見です。
余計なことをしゃべらなかった春太郎さんにふさわしく、近世を扱ったこの論文には父東伍も叔父義彦も出てきませんが、この二人は、春太郎さんのいう「野志的素質」の近代における体現者だったと思っています。