日本財団 図書館


7. 建物当初の屋根

前述のように本屋小屋組は登梁により構成され、屋根葺材は大正8、9年頃までは栗の板葺、その後瓦葺となったが、建設当初は別の小屋組であった可能性を指摘した。小屋組の痕跡をみると、ずし2階を支える薄桁の両端上面に、叉首を置いたと考えられる半球上のほぞ穴大が約4尺5寸間隔にあり、さらに西側妻より半間内側の上屋梁上にも同様なものがある(写真-13)。また、西側妻部の梁内側上にも同様の跡がある。一方、東側妻部では2階に座敷8畳が作られ、ずし2階が撤去されて叉首の痕跡は見当たらない。しかし、屋根裏物置に切断された上屋桁や、床に露出する敷桁にほぞ穴が残っていて、本屋西側部分と同じ構造で、ずし2階があったことが推測できる。以上から元の小屋組は叉首組で、屋根は茅葺であったことがわかる。

 

8. まとめ

以上のように、田村家本屋は文政10年の火災後から文政13年までの武家住宅の遺構であることが、確認された。間取りは北側の奥向と見られる諸室や南東隅の雪隠が取り壊されて残存しないが、その他の大部分は建設当初のままである。屋根は現在瓦葺であるが、大正8〜9年以前には栗の板葺で、さらにそれ以前は茅葺であった。小屋組は叉首組から現在の様な登梁形式の小屋組に変更された。

一方、本屋の建つ敷地は安永2年に大野藩より拝領した時から現在まで田村家が所時し、大きさもあまり変化していない。現在、敷地東側にあった百間堀は埋め立てられ、宅地となってはいるものの、堀と合わせて存在した土居跡の一部が今でも敷地内にのこっている。こうした百間堀跡は現在大野市内には城町の旧内山家住宅西側にのこっているのみである。このような中、敷地内に貴重な土居をともない、建設年代の確定ができ、さらに建設当初の姿がよくのこる田村家住宅は武家住宅として非常に貴重なものである。また、田村家には同家の発展とともに時期を合わせた「家帳」・「絵図」等の建築関係の古文書がよく残っており、これらは武家住宅の変化を知る上で貴重な資料となるものである。

現在、武家住宅の遺構は全国的に見て、その数は一般民家に比べ非常に少なく貴重なものである。また、福井県内においてもその存在はまだ確認されていない。このような中、田村家住宅は大野藩の一武家住宅遺構としてのみならず、福井県の武家住宅遺構としても、さらには全国的に見ても非常に貴重な建物といえる。

 

■謝辞

調査に際しては、田村家当主の鋼三郎氏、同子息の精二夫妻の方々に多大の御理解を賜わりました。また、大野市の本調査担当職員の方々、改造工事担当の今西氏、福井工業大学建設工学科吉田研究室を中心とする本調査参加者には調査の協力を得ました。末尾ながら、記して感謝申し上げます。

1) 『大野市史 図録文化財編』昭和62年 大野市史編さん委員会 p417〜426

2) 前掲1)p405〜410

3) 「土井家家臣由緒書」(寛永〜文久)『大野市史(第4巻)藩政資料編一』 昭和58年 大野市史編さん委員会 p812

4) 「土井家分限帳」(文政〜明治)『大野市史(第4巻)藩政資料編一』昭和58年大野市史編さん委員会 p1068、1069

5) 田村家蔵「田村家系譜」表題がないので、ここでは仮に左記の様に称する。内容は本家田村家の系譜に続き、初代英俊から7代の彪男までを記す。また、本家田村家の分家である井村家系譜についても記される。

 

 

 

前ページ   目次へ   次ページ

 






日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION