なお、現在大野市内には、厚板葺き(あるいはその上に鉄板を葺く)の置屋根で、軒やけらばを方杖で支えている土蔵が数多くみられ、屋根面を土で塗籠め、その上に板屋根を乗せている。これまで述べてきた「蔵家」や藩が防火対策として推奨していた土掛けの「板屋」を思い興させる屋根工法を今に伝えている。
8. 結語
藩政期の大野城下における町家の様相について次のことが指摘できる。
享保期や安永期、天保期における大野城下の町家建築は、本家層に「蔵家」と「葛家」の形態があった。彼らの中には「捌」と呼ばれる貸家を持つ者もいた。「蔵家」は塗家造りの家屋とみられるが、屋根は瓦葺でなく、土を掛けた板葺きであったとみられる。「葛家」は文字通り藁葺き、もしくは茅葺きの家屋である。享保期には本家層の約9割が「葛家」で、「蔵家」はおもに一番町や七間西町など城下の中心部にあった商家にみられたに過ぎなかったが、度重なる火災や藩の家作令もあって、天保期には「蔵家」が「葛家」を上回るようになっている。それでもまだ城下の町家の半数近くが藁葺きであり、大野城下においては幕末に至っても瓦葺は普及していなかった27)。
屋敷地を借りて、家屋を構える地名子の家は、享保、安永期には100軒程度みられるが、正膳町や石灯篭小路などの東西筋の通りや寺町、後寺町通りに多くみられる。これらの家屋形態は本家層よリ一段小規模で、簡素であったとみられるが、詳細はわからない。また、棟割長屋形式の「借屋」は享保期に12棟あり、安永期や天保期に60棟〜70棟ほどあったとみられる。この他、大野城下には多くの土蔵があり、安永4年の火災では実に245軒の土蔵が被災している。このように大野城下に多くの土蔵があったのは、藩の奨励があったためと考えられる。
(註)
1) 大野市文化財保護委員会編『越前大野城と金森長近』 昭和41年
2) 『藩史大事典 第3巻 中部編I-北陸・甲信越』雄山閣出版 平成元年
3) 註2と同
4) 斉藤寿々子家所蔵(『絵図が語る大野 城・町・村』所収)袋外題に「享保十五年八月改町絵図 三枚 箪笥三ばん」とあり。図中に「享保十五庚戌歳十月」との年紀がある。
5) 「大野町用留抜粋(天災地異ニ関スル事項)」安永4年4月8日条(大野市史編さん委員会『大野市史 (第5巻)藩政史料編二』昭和59年 所収)
6) 坂田玉子作成「天保十五年の大野町」
7) 坂田玉子「旧町名は語る 大野編 ○3二番町」福井新聞 平成8年2月
8) 坂田玉子「城下町大野の道路と町角の屋号」(『奥越史料』第16号』平成元年 所収)
9) 『大野市史(第5巻)藩政史料編二』p287
10) 『大野市史(第5巻)藩政史料編二』p289
11) 『大野市史(第8巻)地区編』p47
12) 『大野市史(第8巻)地区編』p44
13) 『大野市史(第8巻)地区編』p47
14) 『大野市史(第5巻)藩政史料編二』p293
15) 『大野市史(第5巻)藩政史料編二』p285
16) 『大野市史(第5巻)藩政史料編二』p101 寛政10年正月28日条 「一、町方家作の儀先年年限を切連々板屋ニ造り直し候様申付候向茂有之候処、右之年限去越江候得共、板屋ニ立替候者ハ何程も無之候(中略)依て以来町方家作致替候節左之通相心(得脱か)可申候(中略) 一、本町通り上下不残 一、七間町ハ本町角より上下不残 一、五番町ハ七間町角より上不残 一、横町ハ五番町引続より横町持本通り之内不残 (後略)」
17) 註16参照
18) 『大野市史(第5巻)藩政史料編二』p286
19) 『大野市史(第5巻)藩政史料編二』p196
20) 『越前大野城焼失ニ付普請并石垣修復之覚』文政11年2月(『大野市史(第5巻)藩政史料二』p274「一、三丸櫓弐箇所門壱箇所有来板屋根今度瓦葺ニ仕度候(後略)」とある。
21) 『大野市史(第5巻)藩政史料編二』p296
22) 『大野市史(第5巻)藩政史料編二』p298