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まず、安永4年4月8日の火災から約1ヵ月半後の5月29日に「町蔵并商人宅板屋ニ建可申被仰付候、来年より建拵可申と申上候」との令を出し15)、町蔵と町方の商家を来年すなわち安永5年から「板屋」にするよう命じている。また寛政10年(1798)と同11年には本町(一番上町・下町)と七間町、五番町、横町など、城下の中心区域の家に対してやはり「板屋」への変更令を出している16)。しかし、覚政10年1月28日条に「一、町方家作の儀先年年限を切連々板屋ニ造り直し候様申付候向茂有之処、右之年限去越江候得共、板屋ニ立替候者ハ何程も無之候(後略)」とある17)ように、さほど効果は上がらなかったようで、たとえば、安永4年5月29日条には「土蔵之屋根迄仮家ニかやぶき仕間敷候、不勝手にて無拠者ハ各別之事ニ候と中渡」とあって18)、火災後の仮普請とはいえ茅葺の土蔵もあったほどである。したがって、「板屋」への家作令は出されているが、安永期以降も本家層の家はやはり「葛家」が主流であったとみられ、そのために大火が相次ぎ、大きな被害を受けたと考えられる。

「葛家」から「板屋」への改変や建替えが急速に進展したのは、文政5年(1822)と同10年の大火後であろう。たとえば、文政5年の大火後、一番上町から横町、殿町の城下南端地域に火除け地が設けられ19)、文政10年の火災後には、それまで板葺きであった大野城三の丸の南櫓・北櫓が瓦葺きに変更されていて20)、大野藩の防火対策に大きな動向がうかがえる。町方においてもこのころ防火意識が強まり、「葛家」から「板屋」へ建て替えられ、天保15年の絵図にみられるような状況になったとみることができよう。

ただし、この時点でも本家層の4割近くは「葛家」であり、これに「地名子」や「借屋」を含めると、300を越す家屋が藁葺きであったとみられる。弘化3年(1847)3月21日に出された「火之元大切ニ致候儀者勿論ニ候得共、万一あやまち等有之候節も板屋ニ致置候得者防方格別致能候間、昨年二月申渡候通来亥年迄ニ心掛(後略)」の令21)は、これら藁葺き家屋に対して出されたものであり、安政5年(1858)にも「町方葛家の分、自今より板屋ニ被仰付度(後略)」とある22)から幕末に至っても藁葺き家屋が相当みられたことがうかがえる。

表-4大野城下におけるおもな火災と家作令

ところで、藩が奨励していた「板屋」とは板葺きの家屋で、これでも防火的に決して優れた建築とは言えないかもしれない。しかし、「板屋ニ作り替候ハバ、成丈薄ク候とも土懸ニ仕立候様相心得可申事」23)(寛政10年)あるいは「凡テ町方家作致直候節者何卒板葺土掛ニ致候様可相心掛事」24)(寛政11年)とあるように、ここで奨励されていたのは、屋根面を土で塗籠め、その上に板屋根を乗せる「板屋」であったことがわかる。これと同じ工法と思われるような土塗の屋根面の上に板葺き屋根を乗せた土蔵が現在も大野市内に数多くみられるのである。こうした板屋根であれば、たとえ火災に遭っても屋根の焼失だけですみ、被害も最小限に留められたのであろう。

 

5. 地名子家

地名子とは、屋敷地を借りている町人層で、階層的には本家層よリ一段ランクが下がる。これらの家屋形態はわからないが、本家層より小規模で、粗末な家屋であったとみられる。屋根はおそらく、藁葺きあるいは粗末な板葺き、たとえば杉皮葺きや榑板葺きのようなものであったろう。

享保15年の絵図には115軒の地名子家があり、「捌」を含めた本家層のほぼ2割程度にあたる。これら地名子家は、城下でも正膳町・六間町・八間町・大鋸町・石灯籠小路など、東西筋の通り沿いに多く存在している。また、寺町とその東の後寺町には寺の境内地を借りている「寺地名子」が多くみられる。寺地名子の家は、東西筋の通り沿いの地名子家が通りに面していたのに対して、境内地の中にあり、通りからやや奥まって存在していた。

 

 

 

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