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4 仙田郷の瀬違いの歴史と背景

渋海川は東頸城郡天水山に源を発し、82kmを流下して、長岡市内で信濃川へ合流している。仙田地区はその中流に位置し、川は仙田地区のほぼ中央を貫流している。この川は地質が軟らかいこと、地形が緩やかであることから蛇行曲流が多く、場所によっては自然に河道が短絡し、その結果生まれた旧河道が山間地には貴重な平坦地を提供してきた。しかし、近世中期頃からは曲流部を人工的に掘削して直流させる「瀬違い(瀬替え)」による新田造成が行われてきた。

江戸時代、仙田地区は扶食米さえ不足して毎年里村から買い入れねばならないなどの耕地不足で、年貢は農閑稼ぎで金納されていた純粋な僻村であった。そのため水田開発に対する執着から、採算に見合わない程僅かな蛇行地形をも瀬違いするなど新田開発を促進してきたものと思われる。

瀬違いを行う目的としては、古田の洪水被害防止と旧河道の開田にある。

 

1]柳島:文政8(1825)年、二町歩余が完成。

2]大島:嘉永4(1851)年に始められたが難所が多く、中断せざるを得なくなった。

3]葭ヶ渕:年代不詳の瀬違い旧河道を開田するため文政年間に出願され、文政8(1825)年、一町二反余の新田を見ている。この新田の完成は明治年代である。

4]中之島:天保5(1835)年に瀬違いが完成。

5]長瀬:寛政11(1799)年に出願され、文政9(1826)年以来開発が進められ、万延元(1860)年に至って現在の河道が完成し、旧河道の開拓が完成している。

6]童子ヶ島:寛政11(1799)年に瀬違いが企図された。

7]わらび島:寛政12(1800)年瀬違い干拓によって旧河道三町歩余の開発を願い出たが、村役人の奥印が得られなかったため、享和2(1802)年再度願い出をする。しかしそれ以降繰穴普請が難航し、明治年代になって再普請されている。

8]琵琶島:旧河道は小白倉分の畑に隣接し、文化元(1804)年、小白倉地分の沢尻より取水する証文を取り交わしている。

 

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図3-4 瀬違いの分布

 

 

 

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