そして昭和33年に「長岡横沢松代線」、ついで「長岡小国松代線」と改称され昭和42年に大倉の道が完成した。さらに昭和46年「主要地方道」に改称され、昭和57年に「国道404号線」に昇格した(現在は403号線に改称)。
その改修工事のいずれかの時期に、大白倉〜小白倉間を結ぶ道筋の脇道より西の谷間に下り、旧教員住宅(現「長寿楽山房」)の前の坂を上って小白倉の三郎右衛門宅の脇道に出たという旧道が改修されて現代の道筋が成立するのだが、その工期は定かではない。
さらに昭和60年にはその道筋である白倉小学校から金作宅南側までの道路が、観光道路整備に続いて幅5m片側歩道付きに拡張整備した。その影響として、路面を既存の幅より南側に切土して広げたため3軒の屋敷が移転していることがあげられる。それ以外に、これまで一体感をもっていた景観が、この太い境界線によって分断されているのが、拡張以前の航空写真から読みとれる。
平成7年には大倉から大白倉を抜ける渋海トンネルが開通し、大白倉内の法線も変更となって、いくつかの屋敷と公民館・墓地が移転した。十日町土木事務所担当者の方からの聞き取りによると平成11年度より小白倉西端から墓地の入り口を見て裏手(東西側)のまわり沢に小白倉橋を架けて大貝側から掘削されているトンネルまでを整備する予定であるという。
2)県道小白倉木落線
『川西町史』に記載されている、明治時代に入って初めての道路の記録である『明治八年道路図』には、新潟県一円の主要道路が第一等、第二等、第三等に分けられて示されている。川西町では、上野・赤谷の2地名しか見られず、魚沼郡内はそれも含めてすべて第三等道路であると記載されている。
そして『明治十六年十一月調整 自柏崎 至十日町県道改築比較線略図』には信濃川の渡しのあった木落より仁田・野口を通り尾根道の現在の観光道路の北東斜面下を通って小白倉を経由し柏崎市大沢に抜ける線が提案されている現在の県道小白倉木落線である。これは現在の国道252号線にあたる十日町から柏崎を結ぶ「県道十日町線」の4つの候補のうちの1つであった。小白倉でも前中仙田村長であった田中政治氏をはじめ沿道の総代が力を尽くして請願を行ったということだが、結局候補地それぞれの猛烈な誘致運動の果てに明治26年に岡野町・仙田・上野間を結ぶ線に決定した。
その後この路線は昭和3〜5年にかけて住民の手によりなんとか完成させられた。この木落・野口・小白倉・大沢線が昭和36年に「県道大沢川西線」として認定されたのち、その一部が「主要地方道小千谷大沢線」に編入された。このとき起点が小白倉になって昭和51年に「県道小白倉木落線」と名称が変更された。しかし小白倉集落前田宅南側より入って小学校グラウンド脇から始まるこの線もその付近2.5kmほどを残して、昭和48年に完成された観光道路にとって変わられている。
3)主要地方道小千谷大沢線
小千谷と大沢を結ぶこの路線は、昭和8年から県道編入運動が沿線の町村長によって始められるが、昭和30年にようやく「県道仙田小千谷線」として編入された。小白倉では大沢から旧小学校正面に出て国道403号線を100mほど小国に向かって東に進み、最初の脇道を孫四郎側に折れるとその路線である。観光道路と交わる交差点で東の北山側に折れる。その後「県道大沢川西線」の小白倉から大沢の間がこの路線に編入され、昭和51年「主要地方道小千谷大沢線」となる。
4)観光道路
この線は白倉から仁田間を結んでいる。昭和48年から使用可能で年々舗装が進められたという。小白倉と大白倉の間に位置する尾根上で国道403号線から分岐し、倉下山など信濃川沿いまで続く丘陵の尾根上をつなぐ。現在では白倉から橘小学校へ通う小学生の通学路である。