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日本の農村産業の主役である稲作は、白倉でも常に中心であったが、中山間地域に多い棚田は、水を入れるには有効であるが産業の機械化に対応するのは難しく、昭和44年からの減反も重なり、耕作放棄地が増加した。

そしてその減反対策として生まれたのがしめなわ造りである。ミトラズという品種を青刈りして作るしめなわは小白倉が先行して始めた。始めたばかりの頃は共同の組合として行っていたが、現在は別の組織に属している。大白倉でしめなわを作っている家は現在7件である。

また、戦前からの産業に、機織りがある。大白倉で盛んであった出機(でばた)は、女衆の冬場の仕事で機織りをしながら、出稼ぎに出かける男衆の代わりに家を守ったのである。現在、機織機の残っている屋敷は、「隠居屋」宅と「沢田」宅の2軒のみになっている。

新しい産業としては、昭和50年頃から茸栽培が行われるようになった。「庄作」宅では現在このための工場を持ち、これは住民の働き口のひとつとなっている。

 

小白倉の産業

減反対策として行われてきたのは養鯉業である。減反で稲作を止めてしまった水田に水をはり養鯉池として再利用しているのである。「金作」宅の田中武さんを中心に錦鯉の養殖が始められ、白倉の栄養分の豊富な土とおいしい水という良好な環境に恵まれて昭和30年代〜40年代後半にかけては養鯉が多いに成功した黄金期であった。

この頃の小白倉に満ちあふれていた活気は、現在も残る各戸の養鯉池の大きさと多さにうかがい知ることができる。しかしながら、オイルショックとバブル崩壊といった不景気の打撃を受け、現在も養鯉業に従事しているのは「金作」宅一軒のみとなる。

またもうひとつの減反対策として大白倉でも盛んであったしめなわ作りがある。これも白倉の質の良い土と水で良質なワラができ、これに高い技術を加えると、白倉ブランドと呼ばれるほどの品質の高いしめなわが作られる。しめなわ作りは主に60歳代の仕事であるが、個人の技術によって任される仕事が異なり、この年代の高齢者にやりがいのある仕事として普及している。

 

祭り

豪雪地の農村の暮らしは、春から秋にかけて農作業にほとんどの時間を費やし、冬は雪に埋もれた暗い室内での生活などといった苦労や不便さが、避けられないものであった。こういった生活の中での楽しみとして年に数回の祭りがある。かつては盆正月を始めとして、1年にいくつもの村の行事があり、これらは白倉の四季の暮らしを彩る風物詩として人々の心に多くの楽しみとやすらぎを与え続けてきた。とはいえそういった様々な行事も時代と生活の変化の中で減少している。しかし、大白倉・小白倉には、集落全体を動かし、それに向かって一丸となれる祭り行事をそれぞれに残している。大白倉の「バイトゥ」、小白倉の「もみじひき」そして両集落で取り組む「自慢会」である。ここではそれらについて記録したい。

 

大白倉の「バイトゥ」

これは1月14日に行われる小正月の行事で、その起源や名前の由来は明らかではない。聞き取りによるとその形式や方法も明治の頃と現在ではかなりの違いがあるらしい。また、行われた日程も農作業の進行によって2月14日(旧暦の小正月)だった時代もあった。ここでは現在の「バイトゥ」の形式を述べる。

そもそも「バイトゥ」とは、一般的に見られる「どんど焼き」に居住性を持たせたような造形物の名称である。「バイトゥ」は(その年の積雪にもよるが)高さ1.5m厚さ1mほどの円形の雪の土台を作り、その土台の上に秋のうちに切り出しておいた直径25cmほどのケヤキの枝で円すい状の小屋組を建てる。こういった力仕事は主に男衆の仕事で、この作業の間、女衆はその上に屋根材として葺かれるワラを編むが、この作業のことを「トバをかく」という。「バイトゥ」の全体の高さは7〜8mにもなり、頂上には正月に飾ったしめなわ等縁起物を結びつける。中には神棚といろりが作られ、夜になるとそのいろりの火を村中で囲み、酒を飲み交わすのである。祭りの締めくくりには大白倉天神囃子を謡い、「バイトゥ」に火がつけられて、その燃え上がり方によってその年の米の作柄を占うのである。

この祭りの作業の中心は大白倉の青年会「銀杏(いちょう)の会」であるが、興味深いのは昭和50年頃から過疎化で子供が少なくなり、自然消滅していたこの祭りを、昭和62年に復活させたことにあり、このためにこの会を発足したのだという。つまり、村の財産である祭りを復活させることで、村の活性化を計ろうとしたことである。

これはまさにまちづくりの精神ありその決断と行動力はすばらしいものである。

 

 

 

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