図 9 種々の研究者により、海洋の資料から計算された大西洋の熱の南北輸送量(F.Schott,1989)
なんと南大西洋では、海は熱を寒い極域から暖かい赤道域に運んでいるのである。何故このようなことが起こるのであろうか?すべての表層海洋循環で、高緯度へ向かう部分(太平洋の亜熱帯循環では黒潮の部分)の水温は、同じ流線上で比べれば、低緯度へ向かう部分(カリフォルニア海流の部分)よりもずっと高い。これが、表層循環が低緯度から高緯度へ熱を運ぶメカニズムであり、南大西洋でも表層循環は低緯度から高緯度へ熱を運んでいる。問題は深層循環の役割である。
図6のストンメルの循環図で、世界で重く冷たい深層水を作り出しているのは、北大西洋の北部と南極のウェッデル海周辺だけである。北大西洋北部で沈降した深層水は南下して、赤道を越え、ウェッデル海での深層水を加えて太平洋やインド洋に向かっていく。北大西洋では、冷たい深層水が南へ、それに伴なって暖かい表層水が北へ運ばれる。したがって、深層循環も低緯度から高緯度へ効率よく熱を運ぶ。
しかし、南大西洋でも冷たい深層水が南へ、暖かい表層水が北へと運ばれるから、熱は北へ、すなわち高緯度から低緯度へ運ばれることになる。そうして、この深層循環の担う熱輸送が、表層循環の担うものより大きいために、南大西洋は一見不可思議な働きをすることになるのである。既に述べたように深層循環に伴う流速は非情に小さい。しかし、深層流の幅と厚さは、表層流に比べて格段に大きい。南北熱輸送は地球の気候システムを維持する大きな要因であるから、気候問題に関連する海洋研究においては微弱な深層流を正確に把握する必要があり、これが海洋研究の難しさであり、WOCEの計画策定に10年にわたる検討を必要とした一因である。
さて、図9の中段の推定は、インバース法と呼ばれる方法によったものである。これは、海洋中の水温・塩分の場の観測値を基に、そのような場が生じるためにはどのような流れの場がなければならないかを計算し、それから熱輸送を推定したものである。
ここで引かれた二つの実線は、この計算時に利用できるデータセットから得られる最大値と最小値を示している。逆にいうと、このような計算をするのに当時の観測精度・データ精度が不足していると言えるのである。WOCE計画の基準観測線で要請された観測精度は、この最大推定値と最小推定値を十分近づかせるために必要十分なものとして設定されたもので、水温値として0.002℃、塩分でも0.002というのがそれである。これは至難のわざではあったが、関係する研究者・技術者の非常な努力によって、多くの基準線において、ほぼ達成されている。
この例は、まさにホームズのパイプ三段階論を地で行ったものと言えるのではなかろうか。そうして、現在の海洋学では三段階すべてを少数の研究者では担えなくなっている事情をよく示しているのではなかろうか。