その四は、深く根ざした虚栄心とその場しのぎの思想により、清朝統治者の目先が短く、進取の気風がなく、落伍に甘んじていたのが海軍をもり立てることが出来なかった本当の原因である。歴史は19世紀の60年代後期に入り、極東は英露対立の局面となり、ロシアは暫時東進南下する力がなく、英国はこの地区の既得権益を守ることに専念しており、規定の局面を保持してこれを変えようとしなかった。このため、その後の30年内において、極東の情勢は相対的に安定しており、これは中国が海軍を進行し発展させる一大好機であった。日本はこの時期に明治維新をやり遂げ、全力を傾けて海軍を発展させた。但し、清朝の統治者はまったく逆に、治にいて乱を思い統治に精励するどころか、太平を糊塗してその場しのぎをおこなって、この少し逃せば直ぐに消えるチャンスを逃した。数十年来、列強は必ず海から進入した後、清朝政府はほとんど毎回海軍を大いに起こす決心を表明したが、誓いのことばははっきりとし、決心は十分であるかのように見えた。しかし、すぐに、決心はどこかへ飛んでいってしまった。特に北洋海軍が成立した後、威勢は既に盛んであり、枕を高くして憂いなしの筈であった。西太后は清朝の最高統治者として、自らの私欲を満たすため、国家の安全を顧みず、矯奢淫逸にふけり、ほしいままに浪費した。享楽の為に、彼女は宮殿を大いに造り、何度も外債を募集したのみならず、流用、留保、立て替え等の名目で、海防経費を用いて、「三海工事」と「暇和園工事」に費やした。この経費だけで少なくとも北洋海軍並の艦隊を再建することは可能であった。当時、将に海軍の艦砲は世代交代の時期に来ており、「外洋の艦は日新月異にして所用の砲は多く新式快砲なり」という状況だった。しかし、1888牛以後、清朝政府は一艘の新艦も設置せず、一門の火砲も更新しなかった。戦前、丁汝昌は主要戦艦の上に新式の快砲を設置することにを請求し、費用は銀60余万両にすぎなかったが、予算がないことを理由に却下された。根本から言って、海軍が興隆から衰退に向かったのは、清朝の統治者が自ら海上の長城をこわしたためだとわかる。この惨めな歴史の教訓は後の世の人は永遠に真剣に記憶しなければならない。
(了)