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それは、本書の123頁でも紹介されている「英清連合艦隊」の設立である。1860年代、太平天国の乱のさなか、清朝は外国の艦隊を導入して軍事力を強化する必要を認めていた。また、ロシアの東進・南下、或いはフランスの安南からの北上を防圧する等列強を牽制するために、英国は清朝と同盟を結ぶ可能性を模索していた。駐清英国公使・ブルースは、この時点で、「中国が強いことよりも弱いことの方が、この方面に新しい東方問題を作り出す可能性が大きい」という情勢判断をし、本国に公信で報告している(参考文献(5)284頁)。1862年、英国政府は、一部の英国人将兵が中国の皇帝の指揮下に入ることを決断した。

英清両国は交渉を重ね、1863年9月、清朝政府は英国から艦船を買い上げ、英国人オズボーン大佐を長とするいわゆる「オズボーン艦隊」が上海に到着する。しかし、清と英国の間で仲介をとった英国人総税務司・レイが、艦隊を私物化しようとして、指揮命令系統に混乱が生じ、また、封建大官の反対もあり、皇帝直属の英清連合艦隊という構想は短期間で破談・清算となり、オズボーン艦隊は英国へ帰っていった。

これはまったく無意味な想定かも知れないが、露骨な植民地主義者が仲介していなければ、英清両国の連合艦隊はその後長く上海に常駐し、英清同盟が日英同盟にさかのぼること約40年前に成立し、その後の極東ならぬ世界の歴史は大きく塗り替わっていたであろう。当然の事ながら、日本は英国と同盟を結ぶ可能性はなくなり、孤立の果てに清、英、露、米等の餌食になり、塗炭の苦しみに陥っていたことは想像に難くないし、他方、清朝は、少なくとも同治年間の版図を維持することは難しくなかったであろう。

ただし、現在のところでは、最新の戚氏の「晩清海軍興亡史」も含めて、中国の海軍史研究では、清英同盟の本質的可能性について評価したり、論ずるものはいない。これまでの研究では単に、「英国帝国主義」が中国海軍を乗っ取ろうとした活動と断じていた。戚氏の研究でも、英国政府の陰謀という評価を行っている。

そのように英清連合艦隊への評価の余地がない理由は、端的に言って、現在の中国の戦略、則ちトウ小平理論の世界が、戦略的な同盟関係というものを受け入れていないためもあろう。中国の現在の「トウ小平的」戦略は、将来、国際情勢の変化によって十分変化しうることが考えられるが、中国が戦略的な同盟関係を如何に評価し、捉えていくかが、引き続き分析の焦点になって行くであろう。

 

(終)

 

 

 

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