一方、アメリカの中国に対する対応はペリー(Matthew C. Perry)提督の日本遠征の目的が中国との通商にあったことが示すとおり、中国との通商拡大がアメリカのナショナル・インタレストであり、通商上の夢でもあった。そして、日米両国はペルー以来中国市場を求めて争ったが、最終的には日米ともに敗北し今日に至っている。すなわち、日本は第1次大戦中にヨーロッパ列国が戦乱で中国にかかわれない好機を利用して優位な地位を確保しようと、鉄道や電話の整備、貨幣制度の改善などの名目で、6億7600万円(地方政府や民間事業に対する借款3億7600万円、直接事業費3億円)の資金を投入する大正の「円外交」を展開し地歩を築いた(9)。しかし、これらの投資は軍閥への軍資金であったと、政権が変わると返却されることはなかった。
一方、アメリカも中国市場の魅力に惹かれ、第1次世界大戦で得た多額のドルを中国市場の将来性に賭けて投資し、その投資額は1930年から1940年には常に日本を越え、投資額は日本の3倍を越えていた。このためアメリカの貿易関係者からは中国より日本を重視すべきであるとの意見もあったが、アメリカは中国を選び抗日戦争を戦う中国に同情し、多額の経済資金や軍事援助、最後には義男軍(パイロット)まで投入した(10)。しかし、アメリカもソ連に支援された中国共産党が政権を執るに及んで撤退、次に現れたソ連も多額の軍事援助を与えながら共産主義をめぐる理論的対立で敗退しなければならなかった。最近のアメリカも中国市場への過大な期待から中国への経済的関心が高まり、中国市場をめぐって再び日米の競争が激化しつつあるように見える。また、最近のアメリカでは日本の優位はごく一時的なもので、20年から30年後には中国の方が日本より発展し、日本より政治的に「今より重要になる国」であると、アメリカの中国への期待と夢は1930年当時と変わっていない。しかし、留意すべきことは経済的利益のために中国に利用され、日米安保体制に亀裂が生じることである。
1930年代の日米の中国に対する対応は、経済的利益から両国の対応が常に分裂・対立し、経済的利益から日米が相互に争い中国にすり寄り、それが中国に利用され日米が戦ってしまったが、今こそ、次に示す元駐華公使マクマレー(Van A. Macmurray)から1935年に国務省に退出された「極東における米国の政策に影響を及ぼしつつある諸動向(12)」を読み直してみるべきではないであろうか。
「ワシントン体制を崩壊させたのは日本ではなく、中国及びアメリカを先頭とする欧米列強である。..........国際法や条約は各国が順守し、その変更はルールに則って行われなければ安定した国際社会を築くことは不可能である。関税主権の回復や治外法権の撤廃のためであれ、領土保全のためであれ、ナショナリズムを口にして国際法や条約を揉濁することは許されない」。
4. 新しいアジア安定化への道
このような日米中関係下のアジア・太平洋地域の安定をいかにして確保すべきであろうか。アジアはヨーロッパとは宗教、文化や政治体制が大きく異なり、宗教一つをみても仏教・キリスト教・回教徒・ヒンズーン教と同一でなく、アジアには多国間相互安全保障体制が有効であり、アメリカとの2国間同盟が時代遅れの冷戦型思考との批判もある。しかし、2国同盟に1国を加えることは加藤高明によれば「ウイスキーに水を入れるようなもの(13)」であり、同盟の実効性を低下させることは、日英同盟という強力な2か国体制(Bilateral System)を日英米仏の4か国に拡大し「太平洋の平和を目的としたた四カ国条約」、中国の権利利益を擁護し、中国市場の門戸開放・機会均等を定めた「中国に関する九カ国条約」、日米英仏伊5か国の「海軍軍縮条約」などによるワシントン体制も、ヨーロッパのロカルノ体制という多国間による国際協調体制も第2次世界大戦を防止できなかったことことから明らかであろう。