しかし、自決の理念が変遷してきた歴史は、さらに19世紀にまで辿ることができる。D.ローネンによれば、自決の政治的表現は5つに大別することができる。すなわち、1830年代から1880年代に至るナショナリズムによる民族の自決、19世紀中葉のマルクス主義による階級の自決、第1次世界大戦直後のウィルソン主義による少数民族の自決、第2次世界大戦後の肌植民地化にみられる人種の自決、そして1960年代中頃からのエスノナショナリズムによるエスニックな自決である(ローネン、41頁)。
さらに、現在でこそ、民族自決はほぼ領域的な分離独立と同義であるかのような見方が一般的であるが、ウィルソンの「平和14か条」には、その点を直接的に示唆した内容は含まれていない。民族自決の理念は、当該民族に自己決定の権利を付与するだけなのである。したがって、本来、民族自決の理念においては、多民族地域の住民が、それまでの国家にとどまりながら各民族の独自性を尊重しつつ自治を享受するという側面も含まれているのである。
多義的な内容を有する民族自決の理念が、一義的に分離独立と結びついたのは、大戦後の脱植民地化の過程においてであった(Heraclides,p.22)。一般的に、脱植民地化の過程においては、それまでの支配的集団である白人と被支配的集団の非白人という対立の構図が過度にクローズアップされ、そこには多民族的な自治という観点が入る余地がなかった。また、多くは人為的に画定されてきた植民地時代の境界がそのまま国境として固執されるが余り、多民族的な自治というある国家内における一定程度の独立性よりも、領域的な独立に焦点が当てられていった点も指摘されよう。
それらと当時に、看過されてはならないのは、第2次世界大戦後の脱植民地化の過程を経て、民族自決が、「理念」から「権利」へと変容し、それが国際的に承認されていった点である。すなわち、国連憲章第1条第2項において「人民の同権及び自決の原則の尊重」が掲げられ、更に1960年の第15回国連総会において採択された「植民地独立付与宣言」第2項では、「全ての人民は自決の権利を持ち、この権利によって、その政治的地位を自由に決定し、その経済的、社会的及び文化的発展を自由に追求する」ことが謳われたのである(寺澤ほか編、131-132頁)。
このように、ウィルソンが唱えた(少数)民族自決の理念は、主体としての少数民族側の要求と国際社会による承認によって、いわば「民族独立権」として表明されることが一般的に認められるようになったのである。しかし、これまでは、民族自決によってひとたび独立を達成した国家に関しては、その内政の状態が問われることはなかった。国際法上の原則の上つである「内政不干渉」によって、自決権の行使は分離独立までにとどまっていたのである。また、「国境不変更」の原則により、独立達成後の国家において、新たに領域的な独立を望む集団が認められることはなかった。