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1934年以降の制度下では執行機関としての首長は、助言的役割しか果たせない基礎自治体の議会よりも強い立場にあったと言えるが、新設された執行委員会は完全に人民評議会の指導、監督下に置かれることになった。また、各レベルでの執行委員会はそれぞれの人民評議会の指導下に置かれ、各レベルの人民評議会はさらに上部の人民評議会の指導下に置かれたのであった。上部機関の指導・監督は下部機関の決定、法令等を一方的に破棄する権限をも意味しており、基礎自治体における自治はその内実を失っていたとも考えられよう。

 

(2) 階層の変遷

 

ア タルノヴォ憲法体制

 

近代ブルガリア国家の基本法であったタルノヴォ憲法は制定直後の1881年に停止され、1934年のクーデタ後も事実上停止された。先に述べたように、住民の代表としての、また意思決定機関としての首長や議会の選挙による選出がなされない時期もあった。議会が助言的役割しか果たさないこともあった。しかし地方制度を行政・地域単位の層構造の変化に注目して概観すれば、第2次世界大戦後ブルガリア人民共和国憲法の制定までの時代は、基礎自治体を土台とする3層構造であったということができる。つまり、国土はまずオクラク(旧県)に区分され、さらにオコリヤ(郡)に、そして基礎自治体に区分されていた。中央政府により近い旧県は1934年以降オブラスト(県)に替わったが3層構造自体には変化はなかった。

基礎自治体に関する法の成立後の1887年には全国で旧県(26)―郡(84)―基礎自治体(1,354)が存在した。1901年に行政区画に関する法改正が行われた後は、旧県(12)―郡(71)―基礎自治体(1,890)が存在した。

バルカン戦争、第1次世界大戦に参戦し領土の獲得、割譲が行われた後の1926年には、旧県(16)―郡(91)―基礎自治体(2,650)と、領土の拡大などにともない必然的にどのレベルにおいても増加が見られた。

1934年には権威主義的刷新を唱えるグループとそれに共鳴する軍部がクーデタを実行した。このクーデタの思想的支柱となった超党派のグループは、無党派の専門家集団による政府の形成、強い中央集権政府の樹立、行政の効率化、スリム化を繰り返し唱えていたが、政権につくと、ただちに政策は実行された。旧県は廃止され新たに県が設置された。県(7)―郡(89)―基礎自治体(921)と旧県が統合されて県となったほか、基礎自治体の大規模な統合が実施されたことが確認される。こうした、行政区分の統廃合の方向は人民共和国成立直後の一時期、基礎自治体の増加という反動を引き起こすが、社会主義時代に入っても継続した。

 

 

 

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