それは、第1次世界大戦後に、トランシルヴァニア、ベッサラビア、プコヴィナ、バナートなどが領土に加えられて大ルーマニアが達成されたことから、新たに組み込まれた領土と少数民族を統合する必要が生じたからであった。この傾向は、カロル国王の独裁体制が確立される1938年以降になると、一層顕著なものとなった。
しかし、戦後ルーマニアがソ連ブロックに組み込まれ、ソヴィエト化が開始されると、ルーマニアの地方制度もソ連モデルに則って再編されることになる。伝統的な県制度に代えて地方と管区が導入されると同時に、ハンガリー自治区さえ設けられたのであった。しかも、共産党の指導的役割の具体化として、あらゆる行政レベルに党機構が並行的に樹立され、地方の政治は共産党の一元的支配下に置かれることとなった。
ところが、1953年にスターリンが亡くなりクレムリンの政策が転換するとともに、1956年にハンガリー革命が生じると、ルーマニアではソヴィエト化からの脱却とルーマニア化が開始される(5)。その延長線上において行われたのが1968年の地方制度の手直しであり、そこでは非効率なソ連型モデルに代えて、ルーマニアの国情に適した制度に改めるべきであるとして、再び県制が敷かれるとともに、ハンガリー自治区も廃止された。それ以降、チェコ動乱を利用してチャウシェスクの独裁化が強化されていくのであるが、その過程で地方の中央への従属をもさらに押し進められていった。県、市、コミューンの党第1書記がそれぞれのレベルの行政機関である人民評議会議長を、経済担当党書記と宣伝担当党書記が人民評議会副議長を、組織担当党書記がすべての大衆組織を統轄する社会主義統一戦線の書記をも兼任することとされたのである(6)。
3 1990年以降の地方制度改革
(1) イリエスク政権の地方制度改革
1989年革命によって、共産党による一党独裁体制に終止符が打たれたことから、地方行政も共産党による支配から解放されることとなり、戦前の地方制度が復活することになった。と同時に、1991年には新憲法が採択され、この憲法規定に則って、同年11月28日に地方行政法並びに地方選挙法も可決され、ルーマニア史上初めて地方自治が法律を通じて保障されることになった(7)。
地方行政法は、地方自治、公共サーヴィスの分権化、地方自治体の選挙、地方の重大問題に関する市民との協議等の諸原則を基礎に据えるとともに、地方自治体の組織及び機能を明確にと、自己責任の下での集団的利益の推進という地方自治の保障を謳った。同法は県と町及びコミューンとの関係も定め、両者の関係の基礎に、自治、合法性、共通の問題解決に関しての協力、という3つの原則を置くとともに、両者の間に従属関係のないことを明らかにした(8)。