ハンセン病回復者に対する社会の対応の問題は、森元氏のスピーチでもとりあげられました。
『1920年代初期の日本の歌人、明石海人はハンセン病のために視力を失いました。海人はあるとき、こう書いています。「らいは天の刑罰を受けた病であり、又天が啓示する病である。深海の魚族のように自ら燃えなければ光は何処にもない」と。』森元氏はスピーチのなかで、氏の個人的な略歴に続いて、妻の美恵子さんと共にもう一度本名を名乗り、社会の啓発活動に積極的な役割を演じようと決断したことについて語りました。
『ハンセン病を体験した私たちは困難な人生を歩み、差別され、烙印を押され、神にさえも見捨てられました。しかし、そのお陰でわたしたちはどんな困難にもくじけない強さと、他人を赦す勇気と、他の人の苦しみを分かつ力を身につけました。このため、わたしたちは社会の不正に苦しむ人々の気持ちを共有し理解することができます。アイデアの友情と支援を通じて、病気や、肌の色や、宗教、国籍によって偏見や差別を受けることのない世界を実現するために力を結集したいと思います……』
カービル療養所の広報担当官、ジュリア・エルウッド女史が最後のスピーカーのバーナード・K・プニカイア氏を紹介し、続いてプニカイア氏がハンセン病と診断された当時6歳だった頃の自分の写真を見せながら『これは、またの名を「ハッピー・ホーム山」とも呼ばれるオアフ島のカリヒ病院に収容されて一ケ月頃の写真です。この子の顔を見ると、一生懸命に悲しみをこらえている様子がよくわかります。「ママ、ぼく、寂しくてたまらない」と。』
『わたしは心の中でこの子に手をさしのべて慰め「万事休すってわけじゃないんだよ」と安心させてやることができます。「痛みはなくなるよ」と言ってやりましょう。6歳だった自分自身の写真を見つめていると、この子の痛みがわたし自身の痛みとなって伝わって来るのです。この子に「……いつの日か笑いも、喜びも、尊敬も、それから尊厳も君のものになる時が来るんだよ」っていってやろうと思います。しかし、みなさん、「その日が来るまでに、君の一生を費やすことになるのだよ……」とはとても言えません……』