義を見て為ざるは勇無きなり
見義不為、無勇也
−ボランティアのすすめ−
社団法人全国児童館連合会会長 戸澤政方
ボランティアとは、自発的に奉仕活動を行う篤志家、という意味のようです。英語の辞書を引くと、有志者、志願者(兵)が一番にでてきます、そう言えば、戦争中に軍需工場へ働きに行ったり、戦後の街角で無産者に食事供与などをした学生などは、「学生義勇軍」といった腕章を巻くことがあったと福田垂穂先生から聞いたことがあります。
どうも日本では、ボランティアのことは義勇兵と解されていたのかもしれません。そうなると、多分出典は『論語』の為政篇、「・・・・・・。義を見て為ざるは勇なきなり」でしょう。「そこに、人間として果たさねばならない道(義務)があると自覚した場合に、しり込みして果たさないことは勇気を欠くことである」、という意味でしょうか。
そのように解釈すると、ボランティアという言葉が福社の専門家の手を放れて、もっと身近に感じられませんか。ゴミを拾うことも、道を教えることも、電車で席を譲ることも、児童館で子どもと遊ぶことも、みんなボランティアです。
私は、理想とする社会づくりに自ら参画する行為という側面もあると思っています。昔よくアメリカの西部劇を見ました。家族集団が辺境の地を開拓して、自分たちの理想の町を作り上げていきます。ワイアット・アープやバット・マスターソンのような保安官を選びますが、何か事件が起きると町中が協力します。犯人追跡には手の空いてる者が全員保安官(志願兵)になります。日本の明治維新を思い描いて下さい。欧米の植民地にならないように、志を同じくしたものが命をかけて日本の独立を達成した歴史です。多くの志士がボランティアとして活躍したのではありませんか。
そのように考えていくと、ボランティアとは民主主義国家が成り立つ基本です。特に民主主義をベースにした福祉国家を作り上げるには、大きな経済力と国民の連帯意識が必要です。
ボランティアに対しては、社会の後進性の温存につながり安上がり行政を認めることになるとか、動機が不純な人がいるとか、という批判もありますが、活動しているうちに社会や他者のことがじわじわと気になってきて、隣人と共に幸福になりたいとか、弱者を助ける強者でありたいとか、いうような気持ちが育つものではないでしょうか。社会にもその過程を認める程度の寛大さは必要だと思います。
さて、同じく『論語』の為政篇に、「子曰く、君子は器(うつわ)ならず」とあります。「立派な人間は、けっして単なる専門家ではいけないものだ」という意味だそうです。「器」はある特定の用途に応じる道具であり、人間はそんな一つの働きしかしない機械であってはらない、という孔子の思いだそうです。