d. 抗仏戦争とジュネーブ休戦協定
フランス統治下では王朝復権を目指す民族主義者と共産主義者の二つの抗仏運動が生まれていたが、しだいに共産主義者が主導権を握り、第2次世界大戦勃発、日本軍の北部インドシナ進駐(1945年)という情勢下においてホー・チ・ミンを盟主とする「ベトナム独立同盟会(ベトミン)」が結成され、1945年9月2日(独立記念日)ホー・チ・ミンがハノイで「ベトナム民主共和国」の独立を宣言した。
大戦後フランスはインドシナへの復権を図り、英国管理下の南部に援軍を派遣し軍事的に制圧した。ホー・チ・ミン政権はフランスと交渉し、一時期「仏連合内のインドシナ連邦を構成する自由国」として認められた(1946年3月暫定協定)が、実質的な独立を求めるベトナムと連邦内自治国に限定しようとするフランスはハノイでの武力衝突(12月)から全面戦争に突入し、ホー政権は地方に撤収した。
1949年フランスは、グェン王朝最後のバオダイ帝を元首とする「ベトナム国」を樹立した。一方ベトミン軍は、中国共産党の援助のもと北部各地で次第に攻勢に転じフランスは徐々に形勢不利となり1954年5月ラオス国境に近いディエン・ビエン・フーの陥落で決定的な敗北を被った。同年7月インドシナ戦争終結のためのジュネーブ国際会議が開かれ、ベトナム、ラオス、カンボジアについて各休戦協定締結と参加国の単独宣言、会議最終宣言等が行われた(これら文書を総称して「54年ジュネーブ協定」と呼ぶ。)
この結果、ベトナムは北緯17度線に沿う暫定軍事境界線が設定され、統一のための総選挙を1956年に実施することが定められた。
しかし、南ベトナムは暫定的南北分割に反対し、米国は統一には南ベトナムの同意が必要であることと選挙は国際監視下で行うことなどを主張して最終宣言に参加しなかった。この結果、ベトミン軍は北部へ、フランス・ベトナム国軍は南部に集結し、結果的にこの暫定軍事境界線が事実上の領土境界となった。
e. 南北ベトナムの対立と戦争激化
北ベトナムでは、土地改革等の社会主義改造、再建、復興等に着手し、国内支配の確立を進めた。
南ベトナムでは、1955年バオダイ帝が退位し、カトリックで反共民族主義のゴー・ディン・ジェムを大統領とするベトナム共和国に変わり、政権強化と反共政策を強硬に推進し独裁的傾向を強めた。
ジュネーブ協定は、1955年に南北両ベトナム間で「56年総選挙」実施のための協議を行うことを定めており、北ベトナム側の呼びかけにもかかわらず、南ベトナムは協定に調印していないこと、共産政権下では自由選挙は実施し得ないこと等を理由に拒否し、総選挙は実現しなかった。
米国は共産主義に対する防衛の観点からフランスに代わり南ベトナムへの関与を強めていった。他方、仏教徒や民主主義政治家を中心とする反ジェム