馳走の一つでもあった。すべてのもの、例えばユリの根にしても取り尽くさず、種子となるべきものを残しておく配慮は常のことであったが、林の下一面に咲き誇ったヒメサユリは戦後食料不足時代の乱獲がたたって、いまは全く希少な植物となった。
現在話題の古墳群は、マウンドの大きさから「馬の墓」などと呼ぶ人もいた。静まり返った松林のなかに累々と連なる墳丘群は一種異様な光景でもある。山麓には、千松寺・永松寺をはじめ関係する近世近代の墳墓があるが、地元の住民にとっては「聖なる山」との認識が存在していたのである。人間のみならず家畜の死体も「山」に埋めたのである。最近ではほとんど行われることではなくなったが、胞衣(えな)を埋める場所もやはり祖先の墳墓に近い「山」なのであった。
古墳群としての発見は昭和58(1983)年4月のことで、明治大学大塚初重博士の示唆を契機に、現在は川西町教育委員会文化遺跡係長の職にある藤田宥宣氏、米沢市教育委員会月山隆弘氏、文化財調査員高橋宏平氏らによるものであるが、発見後も中世の祈祷壇とする異見もあり、昭和60(1985)年に第61号墳から直刀が検出されその論争にピリオドを打った。直刀が検出された日は当時の社会教育課長藤島正康氏が陣頭指揮に当たった。以降の調査は周知のとおりであるが、この調査は同じく山麓の奈良・平安時代の郡衙跡・道伝遺跡の調査に始まることを忘れてはならない。昭和61年には永寺において、大塚教授を向かえ町長をはじめ地区の全員が集まって、古墳に鎮もる遠祖の追善供養が行われた。下小松の人々にとって、「山」(眺山丘陵)は精神構造の核をなす地域なのである。