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序 眺山丘陵と川西の人々との関わり

 

現在の川西町大字下小松地区、かつての下小松村の戸数は藩政中期に百近くなり、また「長堀」と呼ばれる用水体系も完備し、現代の生活様式の基盤ができあがった。地区には現在も米沢藩政期の検地帳・年貢台帳・肝煎留帳などが、歴代の肝煎(きもいり)によって保存されている。地区の人々にとって下小松野丘陵、いわゆる「山」は、耕地にひとしい重要な生活空間であった。藩政時代にはおおむね留め林として管理下におかれていたが、明治以降は個人の所有となって現在に及んでいる。

下小松の住民にとって、山は、堆肥の原料となるべき下草、燃料としての潅木やアカマツの下枝など、生活物資を得る場所として利用されて来たが、さらに祖霊の住む非日常の世界が存在した場所なのである。今は失われた古寺の跡なども散見されるが、地租改正後の命名である尼が沢、稲荷堂、大堤沢、詠山(ながめやま)、舞台出、薬師沢、など土地台帳記載の名称のほか、金山(かねやま)、遊山場(ゆさんば)、塔の平(とうのひら)、小森山、鷹待場(たかまちば)、五本松など、伝説をしのばせ、あるいは現在の古墳群の枝群の名称にも使われている地名も多い、北部の雁鏡山の命名は、菜根譚を出典とするという。点在した小さな沼々は山麓の潅漑に使われたが、これが空行く雁の鏡というわけである。

天保4(1833)年の肝煎日記によれば、早くも正月七日(現在の二月九日)、肝煎(現代の村長にあたる)は「佐野山」へ欠代(かんだい、現代の助役にあたる)を同道して見回りに出かけている。佐野山は「長堀」の資材供給林であり、その管理は藩から委託された肝煎の仕事であった。この時期は積雪最深期であり、木立の雪折れの状況を把握しておかねばならなかった。二月には長堀堰頭首工の用材を見立てるために、再び欠代を連れて現地に行った。二月、四月にはそれら用材の枝の部分を貰い下げ、燃料として使用するための作業があり、五月十八日には草番、つまり堆肥原料の下草刈りを監視するため、肝煎のまた出番があった。お盆前後、稲刈りが始まるまでの約一ヵ月、肝煎をはじめ村の人々の仕事は主として山草刈りであった。山草といっても、痩せた赤土に生える潅本の幼生や小枝であったりして、けっして柔らかい草を想像してはならない。草を刈り取る仕事の単位は、鎌の長さにまとめた量が「ひとなぎ」(一薙ぎ)であり、「六なぎ」で「一ころ」、六ころつまり三十六なぎで「一駄」、一日一人前の作業標準は二駄とされていたが、これを自宅まで運搬し堆積して、水や土を加え腐熟させ堆肥が出来上がった。水稲の肥料はこれが主であった。山草刈りの合間に、こどもたちや女たちは、イワナシの実をたべ、ユリの花や、お盆の草花を摘み、沼の小魚や、月夜の金色の弧を描いて飛び交う「がむし」(ゲンゴロウに似た甲虫)を採ったりした。「がむし」が羽を除去し塩を加え乾(から)煎りすると、蜂の子をはるかに凌ぐ珍味であり、廻村目付(村々を巡視する役人)をもてなす

 

 

 

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