たっている。関係者から状況を確認すると、「東側の斜面から雪崩が襲い、一時は100〜120人のスキーヤーが巻き込まれた。大半は自力で脱出したり助け合って事無きを得たが、1人は圧雪車が排除した雪の中から発見され、既に呼吸停止状態であった。さらに埋まっている人がいないか確認中。」とのこと。デブリの深さは滑走面の圧雪まで1m以上はあり、直ちにスキー場責任者に状況を説明し、応援隊が到着するまでスキー場関係者による捜索を指示し、救出活動の指揮に入る。
この間、診療所医師同乗で到着した高規格救急車で、医師による気管挿管、輸液等の蘇生処置を施された傷病者を搬送。胸痛(外傷性気胸の疑い)、軽度の頭部打撲、通呼吸を訴える傷病者3人を関係者のワゴン車で搬送。本部では、10時30分に職員全員招集体制を取り、傷病者多数に備え、非番招集の救急救命士搭乗の2次救急隊、予備救急車を急ぎ整備した2次救急隊を配備。1次隊も、病院搬送後、診療所医師・病院医師・看護婦計6人の同乗を得て現場に再配備する。
伊吹町全団に出場命令が発せられ、参集した消防団員も加わって、さらに本格的な捜索活動を展開。警察・消防救助隊を含め、総勢約100人での大捜索となった。町当局を中心とした現地対策本部からの行方不明者情報をもとに必死の捜索が16時頃まで続いたところ、デブリをすべて排除し、手袋・スキー板などの遺留品の回収も終わり、折から到着した県警機動隊に一部の捜索の続行を依頼し、18時、駐車場内の車の所有者の所在・地元民宿等の宿泊施設の末帰還者の調査を終え、捜索活動を終了。19時15分の解散まで、実に9時間にも及ぶ雪崩事故捜索活動を終了する。この間、平均1日3件の出場実績を超える4件の救急出場にも対応し、消防本部の総力を挙げた長い1日であった。
おわりに
本来、安全であるべきはずのスキー場ゲレンデ内で発生した今回の救助事例は、初めて経験した雪崩生き埋め事故であり、冬山という特殊性からくる救助資器材の制限、無線不感、二次災害の危険、悪天候によるヘリの運行制限等により長時間の救助活動となった。
この事例では、初動体制をはじめ現場活動、情報伝達等に、以下のように反省点も多い。
(1) 大規模災害対応マニュアルの周知徹底
(2) 無線不感地帯における情報の整理と伝達
(3) 山岳装備の一層の充実
(4) 冬山救助技術の習得・錬磨
(5) マスコミ電話取材への対応
(6) 各種応援協定による他本部への要請判断
今後ますます複雑多様化する救急・救助事象に迅速に対応するため、日々訓練を重ね、救急・救助技術の習得・錬磨に努め、あらゆる災害に対して万全を期するとともに、尊い人命を落とされた犠牲者のご冥福をお祈りいたします。 (野原 正和)
予防・広報
災害に強い街づくりを目指して
峡北広域行政事務組合消防本部(山梨)
はじめに
当本部は、昭和45年3月消防常備化促進に基づき県知事の認可を受け同年4月政令指定となり、46年4月1日から実動を開始した。その後昭和57年4月1日からは行財政の効率向上を図るため、韮崎市を核とした1市7町3村の複合的一部事務組合として再出発をした消防本部である。
当消防本部は、山梨県の北西部に位置し、管内面積756.4k?u、人口約92,000人で、構成市町村の中には過疎と増加傾向を示す町村が混在する地域である。
地理的な状況は、東に秩父多摩国立公園の前衛茅ヶ岳、西には甲斐駒ヶ岳から鳳凰三山を経て南に霊峰富士山を望み、北には八ヶ岳連峰と四方を大パノラマを見る様に拓けた風光明媚な活力隘れる田園都市が点在している。
また、当地域は戦国武将「武田氏」の発祥の地であり、終焉の地となったところから、武田氏3代にわたる重要文化財・史跡・文献等も数多く残されている。自然と一体化された観光施設並びに若者のメッカ清里を中心とした八ヶ岳南麓と、周囲の山々は四季折々にその姿を変えて訪れる人々の心をなごませてく