若者が少ない中で、みんな燃えていた。それに引きつけられたんです」。
ここで彼らは家族のように迎えられ、数々の貴重なふれあいを経験した。都会生活者でもある彼らは、自分たちの街にそれをどう持ち帰るつもりだろうか。
「地域や社会を変えるのは、若者でよそ者であることが必然ではないか。自分のことを知っている人のいる場所で、何か新しいことをやるのは怖い。日常と違う世界に飛び込まないとむずかしい。ここでは、自分たちはいずれ帰る場所のある人間。だからこそ、デリケートな部分もたくさんあったが、結果を出すのは地元の人たちだから取り組めた」というある学生の生の言葉。この言葉をわたしたちはどう受け止めたらいいのだろうか。

記者の目
情報整備の主役は、住民
この1年余りの報道の過熱ぶりに対し、役場は配布したパソコンの稼働率よりも、村民の"心への浸透率"に配慮するという、徹底した待ちの姿勢を貫いているのが、印象的だった。
各家庭にパソコンを無償貸与というのはまさに画期的なことだが、それ自体が村の目的ではない。山村過疎の村をいかに情報過疎にしないか、その重い命題を突き詰めた末にとった手段だった。
ともすれば世間は結果を急ぐ。パソコンを配れば、住民は即座に反応し、それを駆使している姿を求める。
しかし、たかだかまだ1年。それにしては大した稼動状況だ。村の人々はようやくパソコンのある環境に慣れてきたところ。高齢過疎のこの村の21世紀には、最強の情報網が完全装備されているのである。将来の布石とすれば、遅々とした歩みどころか、実に確かな一歩を踏みしているといえるのではないだろうか。パソコンを苦にしない若者世代の老後、数十年先をにらんだ施策とみた。