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PROGRAM NOTE 大野敬郎

ベートーヴェン(1770-1827)は、ボンで生まれた。祖父は宮廷楽長、父は宮廷のテノール歌手。表面的には、恵まれた音楽的環境のように思える。確かに、ボンの音楽家集団を考えれば、種々の点で有利だつたのは推測出来る。ただ、幼年期の、父の強制的-暴力を伴う-なピアノの練習が、幼いベートーヴェンにとって、人格形成上どのような影響を与えたかを考えると、複雑な思いにかられる。それはとも角、彼はピアノの名手になった。それをいち早く認めたのが、1781年に宮廷オルガン奏者に就任した作曲家・指揮者のネーフェ。彼は、ベートーヴェンを翌年には宮廷オルガン奏者助手、その翌年には宮廷楽団のチェンバロ奏者、次の年には有給の宮廷オルガン奏者代理と引き上げ、ベートーヴェンがボンを去るまで、師であり続けた。文化・芸術に力を注いだボン宮廷の図書館には、すぐれた作曲家の、大量の楽譜があり、これらから多くをベートーヴェンが吸収したのは言うまでもない。ネーフェは、ベートーヴェンに助言はしたが、自分の好みを押しつけなかったのである。ベートーヴェンの作品が、一般の人に受け入れられたとはいえない。しかし、将来性を認めるボンの宮廷は好意的であった。ボンに立寄った際、べー卜ーヴェンの作品を認めたハイドンは、選帝侯の頼みで、教授を承諾し、1792年11月べー卜ーヴェンはウィーンに旅立った。

ウィーンでは、ハイドンのほかに、アルブレヒツベルガーやサリエリらにも師事した。しかし、こうした音楽家たちとベートーヴェンは、しっくりといかなかったといえる。すでに作品の出版もしていたべー卜ーヴェンが、研鑚を重ねなかったのは、自分が書きたい音楽について必要な対位法などの技法であり、どんな音楽を書くかではなかったからである。ボンでハイドン、モーツァルトらの作品から充分吸収していたべー卜ーヴェンは、次第にそれらの伝統から離れて、独自の音楽を創り出した。それを認めたくない人にとっては不本意な事だが、べー卜ーヴェンの音楽は人々に受け入れられ、もてはやされた。フランス革命以来、大きく転回した思潮が、深く人間的なものに根ざした音楽に共感したからといえる。フランス革命の理想とその後の現実の余りにも大きな違い、ナポレオン軍による戦争の悲惨と市民生活の困窮などを体験した人々が、挫折を味わいながら様々に思いをめぐらせた時代をべー卜ーヴェンも生きたのである。

 

◇ピアノ協奏曲 第5番 変ホ長調 作品73「皇帝」

この曲は、1809年に完成した。この時期、オーストリア軍はナポレオン軍に大敗し、ウィーンは攻撃の後、占領されていた。ベートーヴェンは、戦争の真最中にも作曲の筆を進めていたわけだ。翌1810年に完成したピアノ・ソナタ第26番「告別」は、ウィーンが占領されていた間、避難していたルドルフ大公にかかわる作品である。貴族たちは逃げられても、一般市民は逃げられずに、じっと我慢するしかない。ベートーヴェンの最後のピアノ協奏曲となったこの曲は、翌10年ライプツィヒで初演、12年ウィーンで初演。ルドルフ大公に献呈された。「皇帝」の愛称は、規模が大きく、技巧的な派手やかさもあるため、後の人が付けた。

第1楽章 アレグロ 変ホ長調 4/4拍子

第2楽章 アダージヨ・ウン・ポコ・モッソ ロ長調 4/4拍子

第3楽章 ロンド:アレグロ 変ホ長調 6/8拍子

 

◇交響曲 第3番 変ホ長調 作品55「英雄」

ベートーヴェンは、この曲を1804年に完成し、同年ロブコヴィッツ公爵邸で私演、翌5年4月ウィーンで公開初演。いずれもべー卜ーヴェンが指揮した。

曲名「英雄」は、ベートーヴェンがつけたもので、それにまつわるエピソードはあまりにも有名である。ナポレオンをフランス革命の理想の具現者と考えていたべー卜ーヴェンの挫折感ははかり知れない。ただ、この曲についていえば、べー卜ーヴェンの個性が、豊かに開花した作品であり、理想的な英雄像-彼が考える偉大さや倫理観など-を表現しようとしたことが、このような大きな飛躍につながったと思える。強い推進力、堂々として壮大な構成は、この曲名にふさわしい。

第1楽章 アレグロ・コン・ブリオ 変ホ長調 3/4拍子

第2楽章 葬送行進曲 アダージョ・アッサイ ハ短調 2/4拍子

第3楽章 スケルツォ:アレグレロ・ヴィヴァーチェ 変ホ長調 3/4拍子

第4楽章 アレグロ・モルト 変ホ長調 2/4拍子

 

 

 

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