艇機を設け, 11m艇は800kg軽くなるよう修理した。
第4次航海では昭和35年1月2日から2月6日までに, 総輸送量154tに達し, 第3次の3倍という予期以上の成果を収めた。この内28tが雪上車, 126tが空輸によるものである。この航海では, 氷海航行距離と氷への体当たり砕氷回数が4回の南極航海中もっとも多かった。ヒーリングタンクを使用しつつ氷への体当たりを行うなど新しい砕氷方法も採られた。
5. 第5次及び第6次修理工事
第4次観測を終って帰国した「宗谷」を調査した結果, これまでになく大きな損傷を受けていることが判った。鋳鋼製船首材と外板との熔接部に亀裂が発生したこと, 左舷バルジの最前部区画(第2次航海から非常用重油を搭載)から旧船体と二重張り外板との間に漏油があり, 機械室左舷二重底の第3重油タンクの縁の山形材から旧船体と二重張り外板の間にも漏油が見付かった。また船尾両舷の推進軸を支える眼鏡型フレームの左舷腕に鋳物の肉厚75mm全体に達する長さ40cmの割れ, 左舷推進軸の偏心量90mmの曲りが確認された。このような大損傷が発見されたことと航空機の事情のため昭和35年4月の日本学術会議総会の決議に基づき, 南極観測2年延長を検討していた文部省は, 8月に1年延長を決定した。第5次工事では, 亀裂を生じた鋳鋼製眼鏡型フレームを, 強度が元の1.9倍になる鋼板製眼鏡型フレームに新替えした。9月にS58-202号機事故のため同型機を防衛庁から借用することになり脚の機構変更のため,枠型クレーンの後部マスト取付け位置を30cm高くし, 機側支持金物を製作してS58の胴体の支えとした。
第5次航海では越冬隊16人資材121tを昭和基地へ空輸した。第6次航海では越冬隊員を収容し基地を閉鎖すると共に航空測量を行った。以上6回の改造.修理工事の経費は合計12億4000万円, この内第3次までの改造費が9億5000万円であった。6回の工事はすべて日本鋼管(株)浅野船渠が施工した。限られた予算, 短い工事期間にも拘わらず, 工事が無事に完了出来たのは, 毎夏精根を傾けて協力された同造船所幹部と職員の方々のご努力によるもので, 造船所駐在監督官であった者として心よりの感謝を捧げたい。「宗谷」は6回の南極航海においてさまざまな危険や困難に直面しながらも, 松本. 明田両船長始め乗組員各位の適切な運用によって船体, 機関, 航空機に大きな事故もなく無事にその使命を果たしてくれた。このことは誠に素晴らしいことで関係者一同が一生の誇りにしている所である。
6回の南極観測支援の任務を無事に終えた「宗谷」は, 昭和38年第一管区海上保安本部函館海上保安部に配属され, 冬季北洋の前進哨戒に, また漁船の救助に活躍し, 漁民から“北洋の守り神”と言われて頼りにされた。昭和53年10月2日,「宗谷」は解役となり,国民に惜しまれながら満40年の波間に満ちた一生を終えた。そして「宗谷」の南極観測における活躍を記念してぜひ保存したいという要望が全国各地並びに若い学生の集まりからまで起こり, 最後に(財)日本海事科学振興財団(船の科学館)に払い下げが決まったのである。「宗谷」はそれから既に18年間同館の行き届いたお世話を受けて今日に至っている。本当に有難い極みである。