1 私と南極観測
私は、昭和33年8月南極観測船「宗谷」乗組となり、南極観測で輸送用に購入する大型ヘリコプターのパイロットとして訓練を受け(機長要員として16時間)、第3次から第6次観測まで、南極地域でヘリコプターの運航に従事した。
宗谷は昭和31年11月8日第1次南極観測の壮途につき、翌32年1月29日リュツォホルム湾内のオングル島に観測基地「昭和基地」を設置、11名の越冬隊員を残すことが出来た。この年のリュツォホルム湾は希有の好条件に恵まれ、宗谷は氷海を湾内深く進入して雪上車による氷上輸送に成功したが、次の第2次観測では氷状が厳しく、米砕氷艦の救援にも拘らず、昭和基地に接近出来ず、輸送は失敗した。その結果、氷上輸送方式から空輸方式に転換することとなり、急遽、大型ヘリコプターの購入、これを搭載するための宗谷の改造、要員の養成が進められ、私も大型ヘリコプターのパイロットとして、第3次以降の南極観測に参加することになった。
短時日での準備で最も心配したことは、宗谷は動揺が激しい上、途中灼熱の海を航海するので、大型ヘリコプターを如何にして無事に運ぶかということであったが、途中30度以上のローリングにも耐え、無事南極洋に着いた時は、任務の第一関門を通過した思いであった。
2 大型ヘリコプターによる昭和基地への空輸作戦
我々が南極洋に到着した頃のリュツォホルム湾は、氷縁が昭和基地の北方100海里以上張り出しており、氷縁付近からの空輸では効率が著しく悪く目標量の空輸は困難であり、距離が短かければ短い程効率がよいので、宗谷は能力一杯、動けなくなるまで進入した。各回の空輸開始時の距離を見ると、第3次が88海里、第4次が47海里(これはソ連のオビ号の支援を受けたので例外)、第5次が51海里、第6次が114海里(この年は特に流氷が張出しており、かつ、輸送量は僅かであった)であった。宗谷は例年ビセットされ、行動の自由を失ったまま西方へ流され、昭和基地からも遠去かつて空輸も出来ぬまま、氷海脱出に全力を尽くすこととなる。
ようやく外洋に出た宗谷は、昭和基地の北方から再び氷海に進入して、