をかわせば、両足をテーブルの上に掲げて威張れるという、由緒と伝説のあるケープタウン。以後6次・7年間にわたり極地への最後の訓練・補給基地として、また、氷との闘いに疲れ果てた我々を、温かく迎えてくれる母なる港としての想い出多い港となります。
当時は「アパルトヘイト」という、極めて厳しい人種差別政策がとられており、上陸をはじめ総ての対応に相当神経を使ったものです。
なにしろ白人以外は人間ではないと、極端に言えば総てその様な形で処理される世界ですから、こちらも極端に言えば神代の昔から、誇りを持って生きて来た大和民族であれば尚更カチンと来る訳です。
「棄民」と言われた「移民」にからむ哀話も耳にしましたし、世話になったお礼と友好親善をはかる日本庭園が、セントラル・パークにありました。
日本人は「名誉白人」と呼ばれ特別な待遇で接しているという話しも耳にしましたし、「ケープ・アーガス」「ケープ・タイムス」という両新聞社が、日本観測隊への対応で論争すると言う様な、興味ある事件?もありました。
しかし上陸した我々にたいしても、直接接触する官民関係者も、殺到する見学希望者も、一部で若干のトラブルはあった様ですが、極めて友好的で〜友好的というより尊敬・憧れに近い感情を、はっきり表面に出して積極的に接触してきました。詳細?についてはトークの際にしましょう。
我々に対して率直に述べる対日(対日本人)感情については、夫々の立場、社会的地位、その他によって多少の差異はありましたが、第一次世界大戦で当時連合国側にあった日本が、サイモンズ・タウンという軍港を基地にして、船団護衛に貢献したこと、オーストラリアやマダガスカルのように、日本軍と直接戦火を交えていないこともあり、スポーツに例える戦争観とも相侯って、案外好意的で「神風」「腹きり」など日本人の精神的面に理解を示す言葉もしばしば耳にし、「日本人は卑屈に成り過ぎている」と迄いわれました。嬉しい様な、悲しい様な、誇らしいような、複雑な気持ちになりました。
サンパウロ付近への「移民」78家族、263人の乗船したボイスベン(オランダ船)14000G/Tが入港、その日の夕方出港していきました。
大西洋を渡る最後の港で「宗谷」に会い、船尾の国旗に涙し、「宗谷」船上で「餅つき」を楽しみ、子供達は踊りを披露してくれました。在船者全員国旗を打ち振り互いに涙を流して出港を見送り、前途の幸運を祈りました。
5. 第一次 暴風圏〜氷河〜氷海
「越すに越されぬ大井川」という言葉がありますが、太平洋、大西洋、インド洋、いずれの海からでも南極に向かうには、越さねばならないのが暴風圏であります。
吠える40度・狂う50度・叫ぶ60度と言われています。何故荒れるのでしょうか? 諸説ありま