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チェコで変わったこと、変わらないこと。

大鷹節子

 

社会主義体制下での「プラハの春」音楽祭がひらかれた1984年5月のことだった。プラハは中世の佇まいの美しさを残しながらも、道行く人びとの表情が何となく冴えない陰鬱で静かな街であった。それでも何時も赤旗ばかりが目につく街に、「プラハの春」音楽祭のfを染め抜いた青空色の旗がひるがえって、街全体が和やかな雰囲気に包まれていた。日本から来たオーケストラが演奏したドヴォルジャーク作曲交響曲第8番は、本場の雰囲気に飲み込まれるように完璧な音を響かせた。聴衆全員総立ちの感激的な拍子はいつまでも鳴り止まなかった。今振り返って見ると、自由世界の日本からやってきたオーケストラに、チェコ人の鬱積した心を託した拍子であったかもしれない。

1989年11月、チェコでは極めて優雅な名を付けられた「ビロード革命」の後、40年以上に及ぶ共産党一党独裁支配が終わって、民主的政府が生まれた。その時、チェコ・フィルが定例の音楽会をキャンセルして、音楽堂を一般公開にし、スメタナ作曲の交響詩「わが祖国」の演奏を続けた。オーケストラが人びとの改革を求める心を表現し、政治体制をくつがえすのに大きな役割の一翼を担ったというエピソードは、「ビロード革命」の名に相応しく感動的である。以後プラハではすべてのものが劇的に変化した。音楽の世界にも自由化の大変革の波が押し寄せて、オーケストラは今まで味わったこともない経済的な苦労をしているが、共産党支配時代の表現の自由さえない苦労とはまるで違っている。今、チェコのオーケストラや歌劇団は海外演奏旅行に忙しい。

外見上の最大の変化はプラハ城やカレル橋の上を通行する夥しい数の観光客である。それと、かつては政府に抑圧されていた教会がゴシック、バロック風の建物を使って、観光客を目当てにコンサートを開くようになったことである.また街の建物は次々と改装されて見違えるように美しくなり、ボヘミアン・グラスの店、土産物店や、ブティークなどが軒を連ねている。オープン・マーケットの色とりどりの野菜、果物の店、なかでもバナナを見ると、生鮮鮮食料店や生活必需品のためにわざわざ円境を越えて西ドイツやオーストリアまで買い出しに行った社会主義体制の時代が遠い昔のことのようである。

一見以前と変わらないのが金曜日の午後である。自動車の長い列が一斉に郊外の別荘に向かい、日曜日の午後になると、家庭菜園の収穫を満載した車でハイウェイが交通渋滞をおこす。ただ自動車の種類、質はこのところ一段と向上して、道端で小さなシュコダ車の故障を修理する姿がなくなった。以前は警察と関わることを極度におそれて、制限速度遵守に徹していたチェコ人ドライバーたちは今、滅法速いスピードで走っていく。

ビロード革命後、昔も今も全く変わらないものがある。その第一は、私が4年間暮らしたチェコへ行くたびに、故郷へ帰るように温かく迎えてくれるチェコの人たちの優しい人情である。うちの庭師だった人は今ではプラハ第一の園芸スーパーを経営する大会社の社長となって成功している。家事手伝いをしてくれた女性は、建物を返還してもらって商店に部屋を貸す余裕ある生活を送っている。身分も生活も激変を経験した人たちなのに、親切な心は全く変わらない。第二に全く変わらないものは、ゆったりした美しい田園の風景である。鬱蒼とした深い森、清い河の流れや無数に点在する湖の静けさは変わらない。そこで人びとは自然を大事にして暮らしている。田舎道の両側に続くサクランボやリンゴの並木がどうなったかは、私の一大関心事である。その場で実をもいで食べ放題であったので、2、3本おきに自動車を止めては、赤黒く熟した甘い酸っぱいサクランボをもいで食べたことがいまだに忘れ難いからである。幸い田舎道の並木は何も変わっていないようなので安心している。

(おおたかせつこ・跡見学園女子大学短期大学部講師、日本チェコ協会副会長)

 

 

 

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