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吉成順

 

ヤナーチェク:歌劇「利口な女狐の物語」

 

昔の地図ならチェコスロヴァキアの中央部、今ならチェコの東部に当たるのが、モラヴィア地方。レオシュ・ヤナーチェク(1854-1928)は、その中でも北東の、フクヴァルデイという所の出身である。少年時代に音楽の手ほどきを受けた聖歌隊寄宿学校での師クルシーシュコフスキーの影響や、スメタナやドヴォルザークが活躍する当時のチェコ楽壇の雰囲気も手伝って、早くからヤナーチェクも民謡や民俗伝統に関心を示し、特に1880年代からモラヴィア民謡の本格的な採集調査を行って、1901年には2000曲以上をも含む民謡集を出版している。しかも彼は、民謡のみならずその基礎になっていると考えられる話し言葉の抑揚にも関心を持ち、それを「旋律曲線」「発話旋律」と呼んで、やはり夥しい採譜・採集を行った。こうした、音楽の根源的な要素にまで溯ろうとする姿勢とその経験の中から、単に民謡の旋律を引用すればよしという多くの「国民主義」音楽とは全く異る、真に個性的なヤナーチェクの音楽語法が形成されたのである。「それぞれの民謡のあらゆる音符に、楽想の断片がある。」「民謡はひとりの人間をそっくり含んでいる。彼の肉体も魂も環境もすべてを。」「劇的書法の秘訣は、生存の明確な一段階における人間を、まるで魔法のようにただちに明示するような旋律曲線を作曲することである。」

ヤナーチェクの作品のうち我が国で最も良く知られているのは《シンフォニエッタ》《タラス・ブーリバ》といった管弦楽作品であろうが、彼が生涯最も重視し、心血を注いだのはオペラの領域であった。33歳の《シャールカ》から74歳の《死の家より》に至る9曲のオペラは、特に1970年代以降世界的に再評価の気運にあり、日本でも今後ますますその重要性が認識されていくことと思われる。

《利口な女狐の物語》はヤナーチェクが60歳代後半の時期に生まれた傑作で、ブルノの新聞に連載されていた絵物語(画家ローレクが描いた風刺的な狩猟画にチェスノフリーデクが文章を添えたもの)をもとに、ヤナーチェク自身が台本を書いた。外見は動物の世界と人間の世界が交錯する幻想と風刺の物語だが、その根底には「生命の輪廻」、それをもたらすものとしての「エロス=性」、それらと不可分な「若さと老い」といった理念への問いが横たわっている。

ちなみにヤナーチェクは、故郷に自分の家を購入するまで、帰省のたびに地元の森番の家に滞在していた。このオペラで描かれている森の様子や森番の生活は、彼にとってごく親しいものだったのである。

 

あらすじはおおよそ以下の通り。

第1幕

第1場

夏の午後、森の窪地。あなぐまの巣の周りで昆虫たちがじゃれあっている。そこへ森番が一服しにやってきて、珍しげに蛙を眺めている小さな女狐ビストロウシュ力を捕える。

第2場

秋の森番小屋。囚われの身を嘆く女狐ビストロウシュ力を犬のラパークが慰め、二人が恋について語っていると、森番の息子ベビークとその友達が来てビストロウシュ力にいたずらする。怒ったビストロウシユカは子どもに噛み付き、逃げようとするが、森番によって縛り付けられてしまう。翌朝、ビストロウシュ力は、人間の言いなりになっているにわとりたちに「立ち上がれ」と煽動するが、聞き入れられないので、にわとりを次々に殺し始める。捕えようとする森番を突き飛ばして、ビストロウシュ力は逃げ出す。

 

第2幕

第1場

森の窪地。ビストロウシュ力は広い住処を一人占めして殿様気分のあなぐまを挑発し、あなぐまが怒って飛び出した後、その穴の住人となる。

第2場

パーセクの経営する宿屋兼居酒屋で森番と校長と神父がトランプをしている。森番が神父の恋愛沙汰を

 

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